関光彦死刑囚に死刑執行!残虐な市川一家殺害事件と最後の言葉とは?

市川一家4人殺害事件の犯人の関光彦死刑囚は犯行当時19歳でした。少年法が適用されて軽い刑で済むと踏んでいた関光彦死刑囚ですが、9年後に死刑が確定しました。死ぬ運命を付き突き付けられた彼の心はどのように変化し、最後の言葉に繋がっていったのでしょう?

目次

  1. 関光彦死刑囚が注目されるのはなぜ
  2. 関光彦死刑囚が起こした事件とは
  3. 関光彦死刑囚の生い立ち
  4. 関光彦死刑囚の家族・親族のその後
  5. 関光彦死刑囚の最後の言葉
  6. 関光彦死刑囚が与えた影響や手記
  7. 関光彦死刑囚を読み解く関連書籍

関光彦死刑囚が注目されるのはなぜ

2017年末に元少年の死刑が執行された

2017年の年も押し迫り、クリスマスが来る前の12月15日に関光彦死刑囚の死刑が執行されました。最高裁で死刑が確定して16年が経過しており、再審請求をしていた途中での死刑執行でした。関光彦死刑囚が犯した犯罪は、市川に住む家族4人を惨殺したというもので、同情の余地など全くないものでした。しかし関光彦死刑囚は犯行当時19歳と未成年でした。

未成年が死刑囚となるのは、1968年に4人をピストルで射殺した永山則夫死刑囚以来でした。未成年は少年法で守られます。未成年であった関光彦死刑囚の死刑確定を導いたのは、永山則夫が死刑判決を受けた時に示された永山基準と呼ばれるものでした。永山基準は死刑を適用する場合の判断基準となっています。

永山基準により死刑判決は、動機、犯行の罪質、殺害方法の執拗さや残虐さなど、合計9つの要素を考慮に入れた上で下さなければならないという一定の指標ができました。殺害された被害者の数が1人だった場合、死刑判決が出にくいのはこのためです。

関光彦死刑囚の執行までが長すぎた

死刑は通常、判決が下りてから7年から8年の間に執行されます。しかし宅間守死刑囚は1年で死刑執行されました。いっぽうで関光彦死刑囚は事件発生から執行まで25年が経過していました。弁護士と共に再審請求をしていた最中の執行ではありましたが、事件の残虐さを考えると執行まであまりに時間がかかり過ぎています。冤罪の恐れがあったわけでもありません。関光彦死刑囚は44歳で死刑を執行され命を終えました。

女子高校生コンクリート殺人事件の犯人との対比

関光彦死刑囚が事件を起こしたのは1992年でした。1988年に起こった凄惨な事件、女子高生コンクリート殺人事件の犯人たちも未成年でした。何の罪もない女子高生が40日以上も監禁され、強姦暴行を繰り返され、苦しみの中で死に陥ったのです。犯人である少年たちは現在出所して、社会で当たり前のように暮らしています。

あまりに軽過ぎる刑になり、世間は怒りを覚えました。関光彦死刑囚はこの女子高生コンクリート殺人事件の犯人たちの刑を知っていて、自分も少年院に行く程度で済むと考えていました。どんな罪を犯そうと少年法が守ってくれると高を括っていたのです。「俺も少年院デビューだな」と気楽に考えていました。

関光彦死刑囚は未成年ならどんな凶悪犯罪を犯しても少年鑑別所に送られてから少年院に送られるという認識でした。死刑は関光彦死刑囚はにとって縁遠いものと考えていました。たとえば無期懲役刑から出所して仮釈放中にまた罪を犯すような人間しか死刑にならないと楽観視していました。

関光彦死刑囚は女子高生コンクリート殺人事件の犯人と自分を比べ、「俺はあいつらに比べたら長期間の犯行ではないし、犯行にあたって凶器を1つも用意していないからまだ頭の中もまともだ」と不遜な考えを持っていました。逮捕後には出所後の生活設計のために母親に教科書、参考書、辞書などを差し入れさせて勉強に励んでいました。

しかし裁判の結果、関光彦死刑囚は死刑判決を受けます。女子高生コンクリート殺人事件の犯人と関光彦死刑囚はいったい何が違ったのでしょう?それは女子高生コンクリート殺人事件の犯人たちの当初の動機が殺人ではなく暴行目的であったこと、また亡くなった理由が衰弱死であり強い殺意があったわけではないから、と言われています。

世間の人々には何とも納得のいかない判決でした。罪刑法定主義の欠陥だと主張する人もいます。実際、関光彦死刑囚の犯行動機の中に「どうせ女子高生コンクリート殺人事件の犯人のように軽い刑で済むだろう」という考えがあったとしたら、この判決が世間に与えた印象の罪深さは根深いものがあります。関光彦死刑囚は2001年に死刑判決が確定しました。

関光彦死刑囚が家族殺害を犯した年齢は19歳です。20歳未満の人間を適応対象とする少年法は、事件当時18歳未満だった場合は、少年の死刑を禁止しています。しかし18歳、19歳は許容されています。死刑執行の判断をしたのは2017年当時の上川陽子法相でした。事件の被害の甚大さを考え、異例の死刑執行を決断したとみられています。平成4年に起きた事件は平成のうちに一応の幕引きを迎えたのです。

関光彦死刑囚の最後の言葉とは?

「少年院デビューだ」とうそぶいていた関光彦死刑囚は、自分に下された判決について何を思ったのでしょうか?死刑が執行されるまでの間、何か心境の変化はあったのでしょうか?関光彦死刑囚の最後の言葉を知ると、人を殺したことに対しての気持ちの変化はあったようです。弁護人を務め、再審請求を起こしていた一場順子弁護士が定期的に面会をし、最後の言葉を聞いたといいます。

最後の言葉に心境の変化はあったのか?

人は死に直面した時、どんな最後の言葉を発するのでしょう?4人家族を残虐に殺した関光彦死刑囚の25年が苦しみの人生でなかったとしたら、殺された家族は浮かばれません。少年が犯罪を犯した時によく言われるのがその生い立ちです。悲しい生い立ちだったからと情状酌量を狙う場合もあります。しかし関光彦死刑囚に関しては悲しい生い立ちは死刑を免れるだけの材料にはなりませんでした。

未成年で幸せな家族を惨殺し、死刑囚となった関光彦はどんな人生を歩んだのでしょうか?生い立ちを含め、凄惨な事件の内容から、死刑執行に至るまでに心境の変化があったのかどうか、弁護士に残した最後の言葉まで追ってみました。

関光彦死刑囚が起こした事件とは

家族4人を惨殺する前に起きたできごと

関光彦死刑囚が起こした事件とはどういったものだったのでしょう?市川一家4人殺人事件を振り返ってみましょう。家族4人を次々に殺した凄惨な事件はどういうことがきっかけで起きたのでしょう?家族の運命を変えた事件のきっかけは、1992年2月6日に関光彦死刑囚が市川市内のフィリピンパブで働いていたフィリピン人のホステスを店に無断で連れ出したことでした。

関光彦死刑囚はフィリピン人ホステスを自室に閉じ込め、性的関係を持ち、負傷をさせました。2月8日に店に帰ったホステスが涙ながらに関光彦死刑囚の所業を訴えました。店の関係者は激怒しました。そしてつながりのある暴力団に落とし前をつけてくれるように依頼しました。その結果、関光彦死刑囚は暴力団に追われるようになりました。自宅にも暴力団が取り立てに来るようになります。

鬼畜の行動が家族4人殺害のきっかけとなる

いっぽう1992年2月12日の午前2時ごろ、当時15歳で高校一年生の少女が夜遅くまで勉強をしており、シャープペンの芯を買いにコンビニに行きました。買い物を終え、自宅に帰る途中で関光彦死刑囚が運転していたクラウンに衝突されます。これは関光彦死刑囚が少女を狙ってわざとぶつけたものでした。転倒し、右ひざを擦りむく怪我をした少女に優しい言葉をかけ、「病院に連れていく」と車に乗せました。

浦安の病院で治療を受けさせ、「家まで送る」と言われ、少女はすっかり安心していました。しかし関光彦死刑囚はこのままでは帰さず、突然に人気のない路肩に車を止め、少女に怪我を負わせ自宅まで連れていき、監禁、暴行をしました。その時に少女の所持品を改め、現金と生徒手帳を奪いました。関光彦死刑囚が立ち去った後、少女は自力で脱出しました。

ホステス監禁事件の件で、関光彦死刑囚は東京全日空ホテルに呼び出され、暴力団から「けじめ」として200万円を要求されました。関光彦死刑囚は「なんとかする」とその場を切り抜けましたが、200万円もの金を用意するあてはありませんでした。自宅に戻っても取り立てが来るため、車中泊をするような日々を過ごしていましたが、少女から奪った生徒手帳を見て、この家に強盗に入ることを思いつきます。

関光彦死刑囚は少女が家族と住むマンションを下見に行き、806号室が少女宅だと突き止めます。1992年3月5日午後4時30分頃、電話をかけても誰も出なかったことから、少女宅は留守だと思い、関光彦死刑囚はマンションに向かいます。チャイムを鳴らしましたが誰も出ることがなく、鍵が開いていたので関光彦死刑囚は部屋に侵入します。

洋室の扉を開けるとテレビをつけたまま、祖母が眠っていました。関光彦死刑囚は現金を物色しましたがなかなか見つかりませんでした。そこで祖母を脅して強奪しようと考え、祖母を起こします。祖母は自分の財布の金を出し、出ていくように言いました。現金のありかを祖母は言いませんでした。そこで尿意を催した関光彦死刑囚はいったんトイレに行きます。その間に祖母は警察に電話をかけようとします。

しかしその途中で関光彦死刑囚がトイレから出てきました。関光彦死刑囚は祖母を突き倒し、近くにあった電気コードで首を絞め、殺害しました。関光彦死刑囚はさらに家族が帰ってくるのを待ちました。台所から包丁を数本隠し持ち待っていると、買い物から少女と母親が帰ってきました。関光彦死刑囚は2人に襲い掛かります。2人をうつ伏せにすると、母親の背中を滅多刺しにしました。

やがて少女の4歳の妹が保母に連れられて帰ってきました。関光彦死刑囚は少女に夕食を作らせ、3人で夕食を食べます。妹は祖母が死んでいるとも知らず、祖母の横で眠りにつきます。通帳と印鑑のありかは父親しかわからないということだったので、関光彦死刑囚は少女の父親の帰りを待つことにしました。

午後9時40分頃、父親が帰宅しました。関光彦死刑囚は父親を脅して通帳の場所を聞き出しました。さらに父親が、勤務先の事務所にも通帳があると言ったので、それも手に入れてやろうと考えました。少女に父の会社まで行かせ、預金通帳を取って来るように指示しました。この時、会社の人間が少女の様子がおかしいと感じます。

少女が家に帰ると、父親は殺されていました。朝になり、少女の家の電話がなりました。不審に思った会社の人間がかけたのですが、関光彦死刑囚に強引に切られてしまいました。その時怖がって妹が泣きだしました。泣き止まない妹に腹を立て、関光彦死刑囚は背中から包丁を突き刺し、とどめは少女にやらせようとします。しかし少女が硬直して動けないでいたので、関光彦死刑囚が首を絞めて殺害しました。

少女は家族全員を殺されました。ここで初めて少女は抵抗します。関光彦死刑囚は少女にも手をかけようとします。その時、警察が踏み込みました。会社の人間が少女のよすがおかしいと感じ、家に電話をかけても切れてしまったので、警察に連絡したのでした。3月6日午前7時ごろ、関光彦死刑囚は逮捕されました。14時間に及ぶ凶行は終わりを告げました。少女は家族全員を殺されたのです。

関光彦死刑囚の生い立ち

同情すべき生い立ちなのか?

関光彦死刑囚の生い立ちは悲惨です。生まれは1973年1月30日でした。祖父は一代で鰻屋チェーン店のオーナーとなった成功者でした。しかし関光彦死刑囚の母は祖父の反対を押し切り、駆け落ち同然に関光彦死刑囚の父親と結婚しました。父親は絵に描いたようなろくでなしでした。飲む、打つ、買うの悪癖のある男でしたが、関光彦死刑囚が生まれたので祖父も結婚を許すしかありませんでした。

不遇の生い立ちの理由は父親

関光彦死刑囚は幼少時から父に殴られる母親を見て育つという生い立ちでした。関光彦死刑囚も父にたびたび折檻されました。その度に関光彦死刑囚は祖父の元に逃げました。祖父は関光彦死刑囚にだけは甘かったのです。関光彦死刑囚が9歳の時、父親の借金が億を超えるようになり、祖父は資産をほとんど手放さなければならなくなりました。祖父は関光彦死刑囚家族と縁を切ると言い渡しました。

生い立ちに流される人生

両親は離婚し、祖父から絶縁され、関光彦死刑囚は自分の生い立ちを呪います。転校した関光彦死刑囚は虐めにあい、次第に屈折していきました。中学に上がる頃には母と祖父の関係は修復されました。しかし不幸な生い立ちからだけでなく、悪癖の多かった父に似たのか、関光彦死刑囚は窃盗と飲酒にふけり、高校に進学したものの、2年生の5月で退学しました。

辛い生い立ちから幸せを求めるが

関光彦死刑囚は祖父の鰻屋で働くようになりましたが、暴力癖は収まらず、きつい仕事で面白くないと半年足らずで辞めてしまいます。18歳の時には船橋市で1人暮らしを始め、10月25日に市川市内のフィリピンパブのホステスをしていた女性とフィリピンで結婚しました。しかし彼女は3カ月足らずで母国に帰ってしまいます。そんな不満をため込んでいた関光彦死刑囚はフィリピンパブでホステスと問題を起こしたのでした。

生い立ちから立ち直ることができず

関光彦死刑囚の生い立ちは確かに悲しいものではあります。しかしもっと不幸な生い立ちで、社会に出て必死に生きている人も多いです。関光彦死刑囚の蛮行を生い立ちのせいにするのは間違いというものでしょう。関光彦死刑囚は結局不幸な生い立ちから立ち直ることができず、少女の家族4人を惨殺するまで、1度も自分を律して生きようとは思わなかったようです。

関光彦死刑囚の家族・親族のその後

家族の一員が罪を犯せば、その他の家族も辛い目に遭います。関光彦死刑囚の家族はどうなったのでしょう?まず鰻屋を営んでいた祖父は罪を犯した孫を非難し、「自分はもう関わりたくない。光彦は法に従えばいいんだ」と切り捨てました。関光彦死刑囚を可愛がっていた祖母は1995年、控訴中に他界しました。

そもそも関光彦死刑囚の父親だった義息子を快く思っていなかった祖父は、娘があんな男と結婚しなければろくでなしの孫、光彦は生まれなかった。いっそ離婚したときに義息子にくれてやればよかった」と述べています。しかし祖父が光彦を甘やかしてきた事実がいろいろと明らかになっていきました。ギター、オーディオなどの遊興費、1人暮らし用のマンション、犯行に使用したトヨタ・クラウンなどを買い与えていました。

関光彦死刑囚は中学に上がった頃から、祖父や母親に多額の現金をもらっていました。祖父が従業員の前で「また夜遊びか」と笑いながら1万円札数枚を渡すこともよくあったという証言があります。中学時代から関光彦死刑囚を知る同級生は事件直後の新聞の取材で、関光彦死刑囚の性格を「優しい人や弱い人に徹底的に漬け込む性格」と述べています。

関光彦死刑囚はいつしか金で思うようにならないと暴力で服従させるパターンを繰り返してきました。1992年3月10日朝刊は「他人への思いやりを知らない本能剥き出しの人間像は、その人格形成には複雑な家庭環境が影を落とした」と報道しました。

祖父が経営していた鰻屋はどうなったのでしょう?事件後「あの店に金を出したら殺人鬼の弁護士費用になる」と噂が立ったため、やがて客が来なくなり閉店に追い込まれました。被害者の3人が背中を刺されて殺されたことから近所の人は「鰻を背開きするように人間を切り裂いた」と噂し、「この事件は鰻の祟りではないか」と言い出す始末だったそうです。

関光彦死刑囚の母は1999年時点で、大学生になっていた弟と共に、息をひそめて暮らしていました。外回りの営業の仕事をしつつ、週に1回の割合で長男である関光彦死刑囚のいた東京拘置所に面会を続けていました。季節ごとの衣服、嗜好品、書籍などを差し入れていました。関光彦死刑囚の弟は顔も体格も兄そっくりでありましたが、性格は穏やかで礼儀正しく、関光彦死刑囚とは真反対の人間に育ちました。

1998年から2000年にかけての冬のある日、関光彦死刑囚の母親を取材したジャーナリストの取材に対して、「もうそっとしておいてください。あの子も今は反省しているんですから」と嗚咽交じりに取材を断ったそうです。

関光彦死刑囚の最後の言葉

稀代の悪党の最後の言葉とは?

人は死ぬ時、これまでの人生を振り返るものです。関光彦死刑囚は死刑執行がいつ来るかしれない日々の中、最後の言葉として何を言い残したのでしょうか?死刑執行前の関光彦死刑囚がどのように死を受け入れたのか、その時に最後の言葉を残したかどうかは不明です。関光彦死刑囚の最後の言葉となると、定期的に面会をしてきた一場順子弁護士の前では、反省の言葉も吐いていたといいます。

関光彦死刑囚は再審請求の途上でした。関光彦死刑囚の最後の言葉として有名なのは「4人がいつもくっついていて、おまえのことを許さないと言っているようで苦しい」というものでした。一審で死刑判決を受けた関光彦死刑囚は自分が犯した殺人についてようやく顧みることができたのかもしれません。しかし「申し訳なかった」という言葉ではなく、最後の言葉とされるものも死者の祟りを怖がるといった身勝手なものでした。

最後の言葉と言われる、4人の祟りを恐れるような言葉からも、父親から受けた虐待が関光彦死刑囚の人格に影響を与え、変わることはなかったといった印象を受けたそうです。しかし晩年は「僕のことは先生が知っていてくれるから、もう、いい」と穏やかな表情をしていたそうです。最後の言葉というより関光彦死刑囚の遺言はたった1言、「裁判記録は先生の元へ」でした。

関光彦死刑囚の最後の言葉を聞いて、死者が取りついているというのは良心の呵責から来る幻想でしょう。実際に無念な思いで死んでいった被害者たちを思うと、彼らの霊が関光彦死刑囚を苦しめていたとしても、当然のことのように思えてしまう人も少なくないでしょう。

関光彦死刑囚が与えた影響や手記

元少年の死刑が執行されたことは、少年法に対する見解について、多くの議論を呼んでいます。死刑執行を決定した上川法相は「個々の死刑執行の判断に関わることなので、個人的な発言は控えたい」と述べるに止まりました。18歳未満の死刑を禁じる少年法について、法務大臣は何を語ったのでしょうか?「年齢によって枠組みが違うのは事実だが、改正を検討しているところなので回答は差し控えたい」としました。

元少年に対する死刑執行は、1997年に死刑執行された永山則夫以来、20年目で史上2人目になりました。永山則夫は1968年に4人をピストルで射殺した当時19歳でした。後の判決に大きな影響を当たえる「永山基準」が作られた元となった死刑囚でした。犯行当時未成年だった死刑囚は他に、大阪リンチ殺人事件の3人や、山口県光市で母子を殺害した元少年らがいます。

少年による重大事件は後を絶ちません。法務省内では少年法改正の議論が進んでいるといいます。東京新聞では16年前に死刑が確定した関光彦死刑囚の手記を掲載しました。関光彦死刑囚はその手記で、真摯に罪と向き合って回心しようとする姿が垣間見えたといいます。

「とっとと死んで消えてなくなりたい」「遺族の方々が望んでいるのだから、報復感情を満たしてもらえばいい」と遺族の気持ちを受け入れようとする気持ちが手記からは受け取れます。「生きていなければ感じられない苦しみを最後の瞬間まで味わい続けようと決意しました」と関光彦死刑囚は綴りました。

「当時の僕と同じようん悩み、混乱し、自分を見失った少年たちが、2度と僕のような罪を犯さないために、僕の経験を反面教師として役立ててもらえば、この世に生まれてきたことに少しでも意味があったと言えるかもしれません」と関光彦死刑囚は手記を締めくくっていました。

関光彦死刑囚を読み解く関連書籍

現在小説家として活動している永瀬隼介はノンフィクションライターとして本名の祝康成名義で活動していた時、関光彦死刑囚とコンタクトを取りました。2000年9月に関光彦死刑囚と面会したり、交わした往復書簡を「19歳の結末―一家4人惨殺事件」を新潮社より発表しました。2004年に第9章「死刑」を書き下ろした上で「19歳―一家四人惨殺犯の告白」と改題されて角川文庫で出版されました。

丸山祐介著の彩図社が2010年に刊行した「判決から見る猟奇殺人ファイル」の122ページから131ページまでの「13【少年犯罪】市川一家殺人事件」で事件の詳細が関光彦死刑囚の実名と共に掲載しています。犯罪事件研究倶楽部が著したイースプレス社2011年刊行の「日本凶悪犯罪大全SPECIAL」の「市川一家4人殺人事件」の項で関光彦死刑囚の実名を出して掲載しています。

2008年ちくま文庫より刊行された「殺人現場を歩く」にも59ページから73ページに関光彦死刑囚の実名と共に掲載しています。社会思想社より2001年に刊行された「明治・大正・昭和・平成事件・犯罪大辞典」にも掲載されています。これには少女が事件当日に関光彦死刑囚に出会い、脅されて家に案内するように命じられたとありますが、この記載は間違いです。

少年法の問題を抱えたまま平成は終わる

2019年3月末で平成の時代は終わります。平成の問題は平成のうちに解決するといった機運が高まっています。平成4年に起きた事件が平成29年の2017年末に結末を迎えたのも、偶然ではないはずです。

死刑廃止論はともかく、死刑という制度がある以上、残忍な事件には極刑が求められます。このような悲惨で悲しい事件が起きた場合、未成年でも極刑に処すべきだと言う被害者感情は無視できません。このような悲しい事件が少しでも減るように、早急な法律の見直しが必要な時なのかもしれません。

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