即身仏の失敗は悲惨!日本のミイラともいえる歴史的存在を画像で説明
ミイラは日本にも存在します。僧侶の究極の修行として瞑想して絶命した後ミイラになったのが即身仏です。即身仏になるには失敗も多かったと言います。多くの失敗の中、即身仏になった僧侶の理念は何だったのか、全国のどの寺に行けば即身仏を拝むことができるかを紹介します。
即身仏の失敗【基礎知識・画像アリ】
即身仏とは?

即身仏とはどんなものか知っていますか?即身仏は自らの体をミイラ化して、自分の死後も多くの人々を救済し、平和を保つためにこの世に仏像として残り続けている仏様です。自らが苦行を行いながら、死んでいくという究極の修行の姿です。主に真言宗の僧侶が即身仏になったと言われていますが、他の宗派でも即身仏になった僧侶は存在しています。画像は即身仏の代表例である真如海上人です。

即身仏になった僧侶の考えはさまざまでした。今の体のまま仏陀となるという即身成仏思想によって即身仏になった僧侶もいました。自らが薬師如来となることで悪を死後も追い払おうとした薬師信仰の僧侶もいました。念仏を唱えながら死んでいくことで極楽往生を叶えてくれる阿弥陀信仰の僧侶もいました。このように苦行に耐えて即身仏となる意味は様々でした。

自らの意志で自分の体をミイラ化させることで、時を超えて民の救済を求めた僧侶たちが即身仏です。想像を絶する過酷な修行の果て、死に至るというのは現代の通常の感覚では考えられない領域の思想です。しかし、この即身仏に必ず誰もがなれたわけではありません。即身仏の失敗例は多く存在します。死ぬ苦行までして失敗するなんて過酷という言葉を超えた世界です。画像の即身仏は上が鉄竜海上人、下が本明海上人です。
即身仏の歴史

失敗例も多くあった即身仏の歴史はどういったものなのでしょうか?日本で即身仏を最初に行った僧侶は、歴史教科書の中でも有名な、真言宗の空海だったと言われています。「金剛峯寺建立修行縁起」によると空海が即身仏になったと記されています。しかしこの文献よりはるか昔に空海は病死したという文献もあり、定かではありません。空海が即身仏になったという話は間違いの可能性もあります。画像は空海の座像です。

日本に現存する即身仏はすべて、江戸時代以降のものになります。江戸時代は現代に近いので、けっこう最近まで即身仏は作られていたということです。現存はしていませんが、即身仏の考えは平安時代からあったとされています。画像は、36歳といちばん若くして即身仏となった妙心法師が祭られている舎利堂です。
失敗に失敗を重ねて

空海以降、多くの僧侶が即身仏を志しました。しかし成功したのは知られているだけで20件ほどで、ほとんどが失敗をしています。現存する即身仏は、数多くの失敗の中から生まれた稀有の存在といえます。命と引き換えに即身仏になろうとしても、ほとんどが失敗してしまうとは、まさに茨の道です。即身仏を拝む時、彼の背景に多くの失敗した僧侶の命を考えなければなりません。画像は貫秀寺に祀られたいる宥貞上人です。
西洋のミイラと日本の即身仏の違い

修行の果てに絶命し、原型を保ったままの亡骸の状態になるという仏教文化に西洋人の興味津々であるといいます。しかし即身仏を西洋のミイラと同じに考えてはいけません。エジプトのファラオやカタコンベの亡骸など、世界ではいたるところにミイラが存在します。しかし、即身仏とミイラの一番の違いは、ミイラはミイラ化されるのが必ず死後であるということです。画像はツタンカーメンのマスクです。

世界各国のミイラに対して、日本のミイラと呼ばれる即身仏は、人々の救済を願って自らの意志で修行をしてミイラの姿になりました。生きている時からミイラになるために苦行を重ね、結果としてミイラとなったのです。偶然にミイラとなったわけでも、ミイラにしてもらったわけでもありません。ここが世界のミイラと即身仏が根本的に違うところです。

日本以外でミイラになることを望んだ人たちは、自らの死後の復活を願い、死体の内臓を取り出して防腐処理をしました。彼の望みは自身の再生でした。しかし即身仏は苦行の果てに死んで仏となることで、民たちの救おうとしました。自分ではなく他の人々を思い、死んでいったことがいちばん大きな違いでしょう。画像は日本に現存する最古の即身仏、弘智法印です。この像はレプリカで本物は寺院の奥に保存されています。

即身仏になろうとした人の多くの失敗例は、ミイラになりきれなかったということです。身体の肉が残らず骨になってしまうのは典型的失敗例です。日本の即身仏が失敗しやすいのは、脳みその問題です。ミイラは内蔵と共に脳も取り出しますが、即身仏は取り出しません。脳は腐りやすく、即身仏失敗の大きな原因となります。失敗することなく脳まできれいにミイラ化することはまさに奇跡でした。画像は横蔵寺です。
即身仏の失敗【理念】
なぜ即身仏になろうとしたのか?

空海は生きたまま仏となり悟りを開くことを唱えました。それが「即身成仏」です。しかし即身仏は即身成仏とは少し違います。即身仏は死ぬことで完成する究極の修行と位置づけられています。昔の日本は仏教が盛んでした。また、戦や飢饉といった苦しみが多く、貧しい人たちは飢えと寒さに震えていました。現代の日本に住む我々には想像もつかない苦しみの中にいました。画像の階段を上ると秀快上人が祭られています。

当時の日本で僧侶たちは空腹に苦しむ人や病気に苦しむ人を目の前にしても何もしてあげることができませんでした。手助けできたとしても一時的なものです。苦しみの根源を絶つことは非常に難しいのです。個人の力で人々に食料を与えたり、金銭面での手助けをしたりするなんて不可能です。それならば苦しみを穏やかに受け入れようという発想の転換に導くのが僧侶の役目でした。方法は宗派によって変わります。

しかし基本理念は同じです。苦しむ人の心を救いたいという強い思いです。修行を積むこと、またその姿を人々に見せることで「我々苦しむものたちを導くために苦しい修行をしてくれている人がいる」と思わせます。これで救われるのなら、いっそ自分が仏になって、直接に苦しむ人々を導いて救おうと考える修行僧が出てきました。以上が即身仏の理念です。

多くの失敗した僧侶がいるなかで、成功して現在祀られている即身仏は17体になります。真言宗の開祖である空海は生きたまま土に入り、高野山の奥の院で今も禅定中であると言い伝えられています。のちの真言宗の僧侶で即身仏になった僧は空海をなぞらえたといいます。現存する17体の即身仏のうち10体に「海」の名がつけられている点からも、空海の弟子になって入定していることがわかります。
即身仏の失敗【作り方】
即身仏のキャラ良(笑) pic.twitter.com/tBuuMUQZG2
— ぱんくえ (@moribayasikirei) September 20, 2018
即身仏にはどんな僧もなれたわけではありません。即身仏になれるのは、生前に徳を積み、善行を行ってきた僧侶であることが必須条件です。即身仏は死後も仏として信仰されます。そのため生前からずっと民衆に慕われてきた僧侶であることが前提となります。まずは生前に善行を積んだ僧侶が即身仏になる決心をしなければなりません。
山籠もり

即身仏になるため、最初に行うことが山籠もりです。1000日単位で行われます。修行日数が過ぎるまでどんなことがあろうと下山できません。火を使えない、酒は飲めない、1枚の衣服だけで過ごすといった制限がさまざまあります。冬の山に籠もるだけでも大変なので、想像を絶する苦行なのは明らかです。極寒の日に入水したり手にロウソクを立てて火を灯す手提灯をしたり、これでもかというほど肉体と精神を鍛錬します。

山籠もりの修行の段階で、僧侶は体を絞っていきます。ミイラ化するには水分が大敵です。水分を多く含んだ体では腐敗の原因となってしまいます。脂肪も熱を逃がしにくい性質があるため、細菌が繁殖しやすくなります。まず体脂肪を落とすことが、死後の腐敗による失敗を防ぐ行動のひとつなのです。
木食修行

苦しい山籠もりに失敗せず、見事下山してきた僧侶が次に行うことが「木食修行」と呼ばれるものです。これは木の皮、木の実といった食材で最低限の食事を摂って命を食いつなぎながら行う苦行です。木の実を食べた理由は、失敗せずにミイラになる最適な状態に体を仕上げていくためです。これはどういったことなのでしょう?

人間の体は皮下脂肪や筋肉が死後に腐敗してしまいます。即身仏は腐敗すると失敗になってしまうので、生きているうちに、木食修行を行って腐敗の原因となるものを体から取り去ります。まず五穀を絶ち、次に十穀や山菜を絶ちます。しかしこの間に、栄養失調で死を迎えるという失敗例もあります。失敗なく即身仏になるにはさまざまな苦労がありました。真如海上人は70年間も木食修行に費やしました。

木食修行の最中はもっぱら瞑想に時間を費やします。この時期に筋肉と脂肪をしっかり削ぎ落しておきます。これにより内臓に細菌が繁殖するのを防ぎます。また蠅など虫が遺体に卵を産み付けることも防ぎます。ウジ虫がわきでもしたら、脂肪を含んだ肉を食べてしまい、骨だけになり失敗となります。この修行が終わるころには僧侶はまさに骨と皮ばかりになり、小さな生物の餌となるものを残していないのです。
漆を飲む
山形県にて。目的地のひとつ、「注連寺」。即身仏・鉄門海上人が祀られている(劣化防止の意味もあり、撮影は禁止されている。即身仏共通事項)。書籍で見て以来、30年経ってようやく実物を生で、間近で拝見できて言葉が出ず。 pic.twitter.com/PHs1ACq8Yy
— 湖々なっつ (@choconutsbeam) September 19, 2018
即身仏になる修行の中で、自ら漆を飲んで、内蔵の腐敗処理をした例があります。日本は乾燥地帯ではありません。高温多湿な世界では内臓がすぐに腐りますが、ミイラのように取り出すことができません。それでは失敗です。漆は非常に毒性が高いです。漆を飲んだ結果、嘔吐、発汗、利尿といった作用があります。体の水分が絞り出され、ミイラ化への理想的な状態になります。また虫がわくのも防ぎます。
土中入定

木食修行を行った後は、土中入定の苦行を行います。土の中に穴を掘って石室を作ります。石室は地下3メートルの土の中にあります。石室は狭く、座禅が何とか組める体積しかなく、立つことも体の向きを変えることもできません。僧侶が埋められると、石室に唯一ある空気穴に竹筒を刺して空気の通り道を作ります。
これは…。予想以上に狭いですなー RT @namlog: 茨城県妙法寺。舜義上人の入定したと言われる石棺・阿弥陀如来を開けたところ #即身仏 pic.twitter.com/vsojzldOlo
— ソゾタケ (@butszo) July 10, 2014
僧侶はその中に入って完全に埋められてしまいます。僧侶は鈴をならして読経を唱えながら死んでいきます。鈴の音が聞こえなくなったら確認のために一度、掘り起こします。死を確認したらまた埋めて、1000日後に掘り返します。その時間経過の中でミイラになっていけば成功です。無事に即身仏となった僧侶が自身の目的が成功したかどうかを知るすべはありません。画像は舜義上人の入定した石棺です。
即身仏の失敗【失敗例】

画像は横藏寺の舎利堂に続く案内板です。このように現代日本に祀られている即身仏は17体です。日本の長い歴史のなかで17体はずいぶん少ないと思いませんが?日本には昔から即身仏になろうとした僧侶が大勢いました。しかしその多くが即身仏になることに失敗したのです。どうして失敗したのでしょう?また、即身仏になることを失敗するとはどういう意味なのでしょう?

即身仏の修行は、ほとんどが失敗に終わります。日本の風土が影響した失敗例もあります。修行途中の体調悪化、精神的衰弱で失敗する例もあります。即身仏の失敗例とはどんなものなのでしょうか? ひとつひとつ具体的に事例を見ていきます。
失敗例①修行を断念する

木食修行は過酷を極めます。1000日は続けないと、体の脂肪は完全に抜けないと言われています。脂肪が体にあるとミイラ化に失敗します。1000日間も木の実や木の皮で過ごすのは辛いものです。どんな高僧でも人間なので生存本能が働きます。栄養失調による病気になったり、木食修行中に命を落としたりする例もありました。精神的にも追い詰められます。修行を途中で断念するという失敗例は記録に残らないほどあります。
失敗例②体が腐る

人間は死後放置をすると、腐敗していきます。腐敗の原因は体内の水分、筋肉、脂肪です。さらには人間の内臓には細菌や微生物が多く、これも腐敗の原因になります。体が腐敗すると失敗します。西洋のミイラは腐りやすい内蔵を取り出してくれるので、即身仏ほど失敗はしません。日本は温かく湿気の多い土壌なので、成功した人より失敗した人の方多いのです。

即身仏は死後何年が経過してもミイラ化して体を残し、民衆に崇められなければなりません。しかしミイラ化に失敗した場合は、どんどん腐敗が進み、白骨化していきます。これが最大の失敗例です。これでは形を残すことになりません。画像は円明海上人の即身仏です。画像の即身仏のように成功して人々から崇められる存在になるのは一握りで、骨になり土にかえってしまった失敗例は数知れずありました。

生前どんなに人々から尊敬されていたとしても、即身仏になることを失敗してしまう僧侶も多く存在しました。ミイラ化は奇跡の結果です。日本のような高温多湿では腐ってしまう確率は高いです。そんな遺体は即身仏としては回収されず、埋葬されます。しかし人々は、即身仏となろうとした意志の強さに尊敬の念を抱いていました。
即身仏の失敗【失敗の結果】
掘り起こしてもらえない

普通の僧侶では即身仏になれません。徳が高く人々から尊敬される僧侶でないと即身仏にはなれません。その大きな理由が、僧侶の死後に起こります。いくら節制して木食修行をしたり、漆を飲んだりして腐敗しないように苦労しても、死後のことは周囲に頼るしかありません。土の中に入り、お経を唱えていた声と鈴の音が聞こえなくなると、いったん即身仏は外に出され、再びミイラ化させるために埋められます。

しかし1000日は長いです。3年とちょっとという歳月を経るうちに存在が忘れ去られ、掘り起こされることなくそのままになってしまった僧侶もいたのです。人目に触れなければ即身仏になった意味がありません。人々が目の前で拝み、信仰心を保つことが重要だからです。土の中にいつまでも埋められていたら微生物によって分解され、土にかえってしまいます。

死んでしまってからの処理は他力本願になります。1000日経過しても、その僧侶の意志通りに動いてくれる弟子や親しい人間がいるかどうかで、即身仏の成功と失敗は分かれていきます。いつまでも覚えていてもらうには本人の人徳に負うことが多いのです。画像は常安寺に祀られている光明海上人です。
法律によって禁止された

江戸時代末期に即身仏になろうとした僧侶には、法律の壁ができました。1877年に明治天皇が即身仏という一種の自殺を禁止したのです。新しい法律が施行され、即身仏になろうとして僧侶が入った石堂を開封することが禁じられてしまいます。画像の南岳寺は最後の即身仏と言われる鉄竜海上人が祭られているお寺です。彼が即身仏になる時には、周囲の大きな苦労がありました。

鉄竜海上人は即身仏になるため長い間、修行を積んできました。しかし明治の新法によってその行為が禁じられてしまいます。鉄竜海上人はそれでも意志を貫き、1878年に入定を果たしました。1000日後、困ったのは周囲の人たちです。鉄竜海上人が即身仏になれたかどうか確認したくても、石室を開ければ刑務所送りになる危険性がありました。

画像の左上の青い衣を着た即身仏が鉄竜海上人です。周囲の人たちは真夜中にこっそり石室を開き、鉄竜海上人が無事に即身仏となっていることを確認したのです。さらにこの寺に祀るため、鉄竜海上人の死亡した日を1862年と偽りました。周囲の人たちの苦労の末、鉄竜海上人は南岳寺で無事に即身仏として祀られる結果となったのです。

画像は即身仏巡りをする中で集めることができる、鉄竜海上人を祀る南岳寺の御朱印です。数々の人々の努力の結果、現代人は鉄竜海上人をこの寺で拝むことができるのです。
即身仏の失敗【現代】
今から即身仏になれるのか?

江戸時代から明治時代に変わった時に、法律も変わり即身仏が入った石室を開けることができない事態になったのは事実です。では現在、即身仏になることは可能なのでしょうか?いくら本人が即身仏になりたいと強く願っても、他人の力を借りずに即身仏になることはできません。そうなってくると現在の法律に抵触してくることが濃厚です。では具体的に見ていきましょう。
法律の壁

まず刑法第189条によると「墳墓を発掘した者は2年以下の懲役に処する」とあります。土中入定をした即身仏志願者を掘り起こす場合、この条文に抵触します。さらに刑法第190条に「死体、遺骨、遺髪又は棺に納められてある物を損壊し、遺棄し、又は領得した者は3年以下の懲役に処する」とあります。即身仏志願者の腐敗防止処理を行ったり、即身仏として祀ったりする行為は現行では違法になります。

さらには刑法第202条で「人を教唆し若しくは幇助して自殺させ、又は人をその嘱託を受け若しくはその承諾を得て殺した者は、6月以上7年以下の懲役又は禁錮に処する」とあります。即身仏とは自ら餓死する自殺です。即身仏志願者を助ける行為は自殺幇助に当たります。即身仏になるのは物理的には可能です。しかし法律的にはいけないことになっています。現代に即身仏を作るのは法律違反です。
即身仏の失敗【日本全国の即身仏】
即身仏はなぜ山形に多い?

山形県の庄内町には6体もの即身仏が存在します。失敗の方が多かったと言われている即身仏がなぜ山形で多く成功したのでしょうか?山形県は即身仏となった僧侶が多いですが、理由のひとつがヒ素を含む土の成分でした。木食修行をしていくなかで体にヒ素が蓄積して防腐剤の役割を果たし、失敗が少なかったと言われています。
鶴岡市あさひむら観光協会の、未歳御縁年特別企画『湯殿系即身仏めぐり』スタンプラリーもコンプ。#即身仏 pic.twitter.com/VN6baG4j1U
— Takaタカ (@vietnamcat) October 28, 2015
山形には湯殿山があります。湯殿山は即身仏になる修行をする山として、今も全国的に有名な場所です。湯殿山の環境は過酷です。冬になると豪雪が降って、修行する環境はさらに悪化していきます。修行の内容も、真冬に水の中で掌にロウソクを載せて燃え尽きるまで読経をするといったものなどがあります。
日本の即身仏の一覧

山形県に行って寺巡りをすれば、短い距離の参拝で、即身仏を祀る寺の御朱印がいくつもいただけます。海向寺は唯一、2体の即身仏を同じに拝むことができるお寺です。祀られている即身仏は忠海上人と圓明海上人です。鉄竜海上人が祭られている南岳寺も山形にあります。本明寺では本明海上人が祭られています。注連寺は鉄門海上人が、大日坊には真如海上人が祭られています。

新潟県の西生寺に祀られている即身仏は、弘智法印と呼ばれています。新潟は他にも即身仏が祀られた寺があります。観音寺では全海上人を拝むことができます。さらに真珠院には秀快上人が祀られています。観音寺では仏海上人の姿を拝見することができます。このように新潟県には4体の即身仏があり、山形県に続いて第2位の数を誇っています。

神奈川県の總持寺には、無際大師が祀られています。京都で参拝できる即身仏は阿弥陀寺の弾誓上人です。福島にある貫秀寺には宥貞法印が祀られています。茨城県にある妙法寺では舜義上人が、長野県の瑞光院には心宗行順法師が、岐阜県にある横蔵寺には妙心法師が祀られています。現存する多くの即身仏が、傷むために写真撮影禁止ですが、拝観したら目に焼き付けられる壮絶な姿です。
失敗者の思いに手を合わせよう

日本という気温も湿度も高い国で、防腐処理も行わずにミイラとなった即身仏は、存在自体が奇跡と言っていいでしょう。全国に散らばっている即身仏の1対でも拝観すると、壮絶なまでの苦行の果てに民の幸せを求めて生き仏となった僧侶たちの思いに触れられます。彼らのような成功者ではなく人知れず失敗して消えていった僧侶たちの思いも含めて、手を合わせてみましょう。