玄倉川水難事故のその後!生き残った少女の言葉とDQN川流れの詳細
1999年8月14日に発生した「玄倉川水難事故」をご存知ですか?この水難事故は会社仲間が家族ぐるみで玄倉川にキャンプに出掛けた先で起こった水難事故です。この記事では事故が起こった要因、そして玄倉川水難事故生存者のその後や日本社会のその後について紹介します。
目次
玄倉川水難事故の詳細
死者13名を出した玄倉川水難事故とは

玄倉川水難事故という事件をご存知でしょうか?玄倉川水難事故とは、神奈川県足柄上郡山北町に位置する玄倉川で、子供4人を含む13人が亡くなってしまった水難事故です。このときには18人の人が玄倉川を訪れておりましたが、生き残りはたったの5人という恐ろしい水難事故となってしまいました。今回は玄倉川水難事故の詳細やその後、事故の犠牲者や生存者について紹介します。
玄倉川水難事故が有名になったのはなぜ?

川や海の多い日本では、他にも大きな水難事故がありましたが、この玄倉川水難事故においては受難者たちがあまりにも自然について無知だったことや、目に余る態度や暴言が世間で話題となり非常に問題視されたことからとても有名な水難事故になってしまいました。その後、この水難事故の犠牲者・生存者の本名や会社名はネットに流出してしまう事になりました。
玄倉川水難事故の発生日時は?

玄倉川水難事故は、1999年8月14日に発生しました。横浜からそれぞれの家族を連れた会社仲間が25名、玄倉川水難事故発生前日の8月13日に、神奈川県を流れる玄倉川の中州でキャンプをしたことが始まりです。

玄倉川水難事故当日の8月14日は、お盆真っただ中の土曜日という事もあり、玄倉川はキャンプを楽しむ人々で溢れていました。この時期にはオートキャンプブームや流星群到来のタイミングとも見事に重なり、キャンプ指定外の場所にも多くのテントが張られていました。
玄倉川水難事故の当日の天候は?

玄倉川水難事故の当日(8月14日)の天候は、前日(13日)に紀伊半島の南海上に熱帯低気圧の発生が原因となり、「暴風雨」という悪天候でした。そのため、前日の夕方になると神奈川県でも雨足が強まり、神奈川県内全域に気象庁から「大雨洪水注意報」が出される事となりました。

玄倉川水難事故当日の14日早朝には、「大雨洪水警報」は発令されました。激しさを増した当日午前8時までの総雨量は114mmにもなりました。救助開始の午前10時には、1時間に38mmという激しい雨になってしまい、上流にある発電用玄倉ダムに貯水機能はなかったため、崩壊防止のために放流を行うより他にありませんでした。
玄倉川水難事故の流れ①前日

玄倉川水難事故の経緯について説明します。まずは前日の1999年8月13日(金)、紀伊半島の南海上に熱帯低気圧が発生した際に一行がキャンプを開始しました。午後3時ごろに降水が始まり、その後巡回中のダム管理職員から増水と水位上昇の警告が行われました。

午後5時前には神奈川県銭機に大雨洪水注意報が発令されました。午後7時頃にはグループの25人のうち日帰り予定だった4人が帰宅しました。午後7時半過ぎには雨が激しくなったため、上流にある玄倉ダムが放流予告のサイレンを鳴らします。午後8時前には2度目の退避勧告をし、その後ダム管理事務所が警察署に通報しました。

午後8時20分、玄倉ダムが放流を開始し、午後9時過ぎにはダム管理職員と警察官が直接退避勧告を促しに来ましたが、その後素直に退避勧告を聞いたのは一行の内たったの3名のみでした。これ以降に素直に退避しようというメンバーは現れず、その結果生存者がたったの5名になってしまったといえるでしょう。
玄倉川水難事故の流れ②当日
【玄倉川水難事故】DQN18人「警報鳴ってるけどキャンプ続けるわwww」「逃げろとかうるせえな!殴るぞ!楽しんでんだよ!」→増水によって流される https://t.co/du3nzakA1G
— Saito (@majikichi_saito) July 14, 2018
次に玄倉川水難事故当日の1999年8月14日(土)の流れについて紹介します。午前5時半を過ぎた頃、神奈川県全域に大雨洪水警報が発令され、午前6時頃には前夜に撤退したメンバーより未だキャンプを続行した一行に避難が呼びかけられましたが、結局一行は無視してキャンプを続行しました。その後午前6時半過ぎ、玄倉ダムは本格的な放流を開始します。

午前7時半頃、警察官が退避の呼びかけを行い、午前8時過ぎには前夜に退避したメンバーからも119番の通報が行われました。午前8時半頃に中州が水没し、キャンプを続行した一行のテントは流され、自力の退避が不可能になる程に水位が増しました。午前9時に消防のレスキュー隊が到着しました。

午前10時頃にレスキュー隊が救助を開始しました。この時にテレビカメラによる放映が開始され、一行のリーダーによる暴言や酷い態度が世間の目にさらされることになりました。午前11時頃、警察からの要請により玄倉ダムが放流を中止しますが、満水となったため5分で放流を再開します。

その後18名が一斉に流され生存者1名が救出、4名は岸に流れ着いた為生き残りました。この時、テレビでの生中継は継続して放映されていました。午後12時15府に現地本部が設置され、午後5時には神奈川県知事により陸上自衛隊へ災害派遣の要請が出されました。そして午後7時頃、下流の丹沢湖にて2名の女性の遺体が収容されました。
玄倉川水難事故の流れ③その後

次に玄倉川水難事故の翌日1999年8月15日(日)以降の流れを紹介します。午前8時半頃、対岸にいた生き残り4名が無事救出されますが、午後には2名の遺体が収容される事となりました。その後、28日までに警察・消防・自衛隊や地元自治体の手により、10名の遺体が収容され、29日に最後の行方不明者であった1歳の女児の遺体が発見されると、捜索活動は幕を閉じました。

玄倉川水難事故がDQNの川流れといわれる理由
DQNの川流れの由来とは?

この玄倉川水難事故は、別名「DQNの川流れ」とも呼ばれています。それはこの一行が水難事故前、そしてその後において地元住民や救助隊の人々に対して「DQN」と言わざるを得ない無礼でひどい態度を取ったことが由来しています。この時の行動は、受難者たちのその後の運命を大きく変えることになりました。では、実際にこの一行はどのような態度を取ったのでしょうか?
玄倉川水難事故・警告段階での暴言

まずは玄倉川水難事故における警告段階での暴言を紹介します。この一行には、前日13日の夕方から14日当日の朝にかけて、ダム放流の警告や退避勧告が再三行われていました。この退避勧告を素直に受け入れた年配の3名は素直に避難し生き残りましたが、その他の18名は退避勧告を無視して中州に残り、注意をしてくれた人に対して暴言を吐き、あざ笑うような態度を示しました。
新しい記事を投稿しました: 【玄倉川水難事故】「殴るぞ!失せろ!」「早く助けろ!」再三の退避勧告を無視してキャンプ続行!13名死亡 https://t.co/MHXarvaHTtbyあいたんたかたん
— 役立ち情報探し (@tkoff0000002) September 1, 2018
退避勧告をしてくれたダム管理職員や警察官に対して、この一行のリーダー的存在であった加藤直樹は「早く失せろ」や「殴るぞ」、「楽しんでるんだから放っておけ」などの暴言を吐きました。自然の恐ろしさを熟知している地元住民の方に対しても、一行は「地元民は臆病者」や「プライバシーの侵害を楽しんでいる」といった無礼な発言を連発しました。

このように様々な人からの意見を無視して、18名はキャンプを続行してしまいました。ここでしっかりと地元住民のアドバイスや警察官とダム管理職員の退避勧告を聞いていれば犠牲者が13人にも上ることはなく、無事に皆生き残りできるはずでした。
玄倉川水難事故救助中の暴言
次に玄倉川水難事故の救助中に吐かれた暴言を紹介します。救助活動が開始されると、リーダー的存在であった加藤直樹は自分たちを救助しようと奮闘しているレスキュー隊に対して暴言を吐き始めました。この時には水量が一気に増し、一行はパニックに陥っていました。この様子は中継中のテレビカメラにも納められていました。

もちろん洪水の犠牲者となり命を落としたくないという思いや、生き残りたいという思いが入り交じりそのような態度や暴言になってしまったとも考えられますが、元はといえば退避勧告の時点でしっかり避難していれば避けられた事態です。命を懸けて自分たちを救おうとしてくれている人々に向かってあまりに心無い態度だったのではないでしょうか?

リーダー的存在であった加藤直樹は、レスキュー隊に向けて「おいこら、ヘリを呼べ」や「もたもたするな」、「お前らの仕事だろう、早く助けろ」などの暴言を吐きました。このような態度が生中継され、世間で物議を呼ぶことになりました。いくら生き残りたいとはいえ、自分の命を助けようとしてくれる人に向かって、このような発言をする事は非常識としか言いようがありません。
その他のDQN事件・藁科川水難騒ぎ
台風のたびに思い出すのがこれ
— リリー・ジャスンキー (@camel10mg) September 30, 2018
こんなゴミクズでも今頃は結婚してガキ産ませて幸せにやってるかと思うと憎さのメーターが吹っ切れる
静岡【藁科川水難騒ぎ】中州からの救出活動「勝手に来たんだろ!」 https://t.co/6VKv80V8HB @YouTubeさんから
玄倉川水難事故の同様に、「DQN」事件と言われた事件がほかにも存在しています。2000年8月15日未明、静岡県で発生した「藁科川水難騒ぎ」です。静岡市富沢を流れる藁科川の中州で飲酒行為をしていた少年少女9人が、雨で川が増水したため身動きが取れなくなり、そのまま中州に取り残されてしまった事が発端となりました。
そこに駆け付けたレスキュー隊が命がけで彼らを救出し、彼らは無事に生き残ることができました。しかしこの少年たちは救助してくれたレスキュー隊に対する謝罪やお礼がなく、尚且つ消防が勝手に来ただけで自分たちは自力で帰還できたというコメントを残したことで炎上しました。その後、この少年少女グループの2名は暴行の疑いで逮捕される事となりました。

玄倉川水難事故のリーダー加藤直樹の詳細
生き残りの1人・加藤直樹とは

一行のリーダーのような存在で、先ほどの暴言でも中心にいたのが「加藤直樹」という男性です。一行は彼が中心となり地元住民やレスキュー隊に暴言を吐き、退避勧告を受けてもキャンプを続行していました。しかし、皮肉なことに誰よりも「DQN」な行動をしていた彼は無事に生き残りできています。

また、加藤直樹と共にキャンプに来ていた仲間たちは会社の同僚だったという事がわかっています。会社の同僚同士でそれぞれ家族を連れてキャンプに来ていましたが、務めていた会社名もネット上で流出してしまっています。
会社名は「富士繁」

加藤直樹等が務めていた会社は「株式会社富士繁(ふじはん)」という社名で、主に製鉄原料や非鉄金属類の売買や卸売業務を行っています。この一行は富士繁の戸塚工場に勤務していた社員でした。地元住民の話を聞くと、この富士繁という会社の評判はあまり良くなく、柄が悪いイメージがあるとのことです。

玄倉川水難事故の生存者・犠牲者の詳細
玄倉川水難事故の生存者・犠牲者の名前

玄倉川水難事故の犠牲者となってしまった人々の名前は今でもネット上で閲覧することができます。残念なことに犠牲者となってしまった13名を紹介します。松尾利美さん、松尾理恵さん、松尾歩ちゃん、松尾駿兵ちゃん、加藤裕二さん、加藤美江さん、加藤優香ちゃん、梶ヶ谷剛さん、織立亜希子さん、高橋直人さん、小野崎恵子さん、そして原田敬介さん、原田 千佳ちゃんです。
過去の玄倉川の事故の
— ハル (@harunkea4649) August 16, 2018
動画を見ると心が痛む。
多くの犠牲者。
子供達に罪は無い。
ご迷惑を祈りながらも
この悲劇を決して
繰り返してはなら無い。
川は生きている。
この玄倉川水難事故では多くの幼い命が奪われてしまった点でも注目を集めました。子供は親を選べないとはこの事ですね。この一行の大人たちがダム職員や警察官、地元住民の忠告を素直に聞いていれば、犠牲者は1人も出ず、皆が生き残り可能な事故でした。
玄倉川水難事故の生存者の名前

次に、この玄倉川水難事故の生存者を紹介します。加藤直樹さん、加藤朝香ちゃん、加藤一樹ちゃん、平野幸男さん、平野嗣富さんのこの5名が生き残り出来た人々です。この生存者の数人は、玄倉川水難事故のその後にも騒動を起こしていました。
玄倉川の水難事故が思い出されたのでwikiとかまた読んだけど、何度見ても「こいつらあほすぎ」以上の感想がない。オマケに絵に描いたようなDQN。流されて当然だわね。
— やまさく (@yamayama1984) July 3, 2018
他人の忠告は聞こう。生き残りも相当クソいってのもポイントが高い。
日本のレスキューの向上に貢献したことが唯一の功績かな。
13名の犠牲者のうち、5名は株式会社富士繁の社員で、2名はその社員の妻たち、他の2名は社員が連れてきた女性、そして4名は幼い子供でした。犠牲者は富士繁の社員を中心として、その妻や関係者の女性、そして子供で占められていました。
生き残りの内2人は加藤直樹の子供

「加藤」という名字からもわかるように、加藤朝香ちゃんと加藤一樹ちゃんは先ほど紹介したリーダー的存在であった加藤直樹の子供です。事件後には、生中継のテレビ中継が話題となり、瞬く間に加藤直樹を筆頭として生存者や犠牲者の詳細、そして彼らの会社名もすべてネット上で晒されてしまうこととなりました。
玄倉川水難事故のその後の生存者たちの暴言
救助隊への暴言

玄倉川水難事故のその後、救助された生存者たちが吐いた暴言を紹介します。救助してくれたレスキュー隊に対しては、自分たちの使用していたテントを回収したら返してくれという発言をします。目の前で知人が川に流され多くの犠牲者が出てしまったという時に、彼ら一行は1番に自分たちの使用していたテントの返却を求めていました。
地元住民に対する暴言
「おいこら、ヘリを呼べ」「もたもたすんな」「仕事なんだから早く助けろ」玄倉川水難事故(1999年)で救出された男性が、活動中のレスキュー隊員に向かって発したとされる言葉。住民が差し入れたおにぎりを「まずい」と地面に叩きつけたとも。
— こうたか@事務屋青龍 (@jimuya_sailue) July 31, 2018
また、地元住民の方々が親切心で一行の生存者たちにおにぎりを差し入れした際には、もらったおにぎりに対して「まずい」という発言をし、その後もおにぎりを地面に叩きつけるという行動をしています。警告中にもさまざまな暴言を浴びせられたにも関わらずこのように親切にしてくれた地元住民の方々に対して行ってよい態度ではありません。
玄倉川水難事故のその後の生存者や被害者家族の動き
加藤直樹の娘・朝香のブログでの言葉

生存者の1人である加藤直樹の娘・加藤浅香ちゃんは事件のその後、ブログを更新していました。もちろん匿名で、事件の名称や場所等は特筆されていませんでしたが、読み手が玄倉川水難事故であると特定するには十分すぎる内容でした。現在はブログは閉鎖され、過去の投稿を見ることができません。このブログは世間の反感を買い、火に油を注ぐこととなってしまいました。
もう一つのV(さっきの奴の編集前の元映像)と助かった子が大きくなってから書いたブログの文章。責めるなら自分じゃなくて馬鹿な両親だよ。
— ☮️ま こ ろ ん☮️ (@quacks32) July 19, 2018
玄倉川13人死亡事件 https://t.co/is9kzzTRGi pic.twitter.com/Hap4hPGybA
こちらは生存者である加藤浅香ちゃんが書いたブログとされています。このブログは、彼女の心の傷を綴った内容ですが、救助してくれた人々や地元住民への感謝が述べられていない点、そして自分たちの両親の振る舞いや態度に対する反省がないという点で炎上する事となってしまいました。
「自己責任」っていう言葉で思い出したのが玄倉川水難事故。被害者が流されていくまでをテレビ中継するとか、今考えると狂気の沙汰だった。助け出されたリーダーがかなり酷い奴だったせいで、中和されてしまってるけど罪のない子供が死んでるし、あの映像はトラウマ。
— まあぷる(たぶん捻くれてる) (@nemu_tatibana) October 27, 2018
しかし、彼女は当時幼稚園児であり、幼いころに両親や兄弟を失ったある意味では「犠牲者」である事も間違いありません。そのため、加藤浅香ちゃんに対して誹謗中傷や非難をするべきではないという声も上がっていました。責められるべきはやはり両親ですが、彼女もまた彼らの子供として、そしてあの事故の生き残りとして事件を生涯背負わなくてはならないのです。
生存者の大人のその後の言動

生存者のうち、会社員であった男性2名はこの事故の後に会見を開くことはありませんでした。この生き残りの2人は、自分たちの行動についての償いや救助隊・地元住民への感謝を表明しなかったため世間から非難を集めることになりました。事故後には生存者の名前や社名までネット上で流出してしまっていたため、この2人を特定することは容易でした。
勤務先・富士繁のその後

この一行の内、5名が務めていた株式会社富士繁は現在でも営業を続けています。事故のその後も、社名は「富士繁」のままです。また、事故の影響を受けたことは間違いありませんが、その後新たな施設を開設したり、新たな登録や特許を取ったりと事業の幅を広げていることがわかっています。

玄倉川水難事故に関して、富士繁の責任を求めるような声が聞かれることはほとんどありませんでしたが、世間に悪い評判として社名が広がってしまった以上、社名変更をする事が賢明であると考えられますが、富士繁が社名を変更することはありませんでした。会社側としては、逆に社名を変更しない事でこの事故との関与を否定し、潔白を証明しているようにも見えます。

しかし、株式会社富士繁の評判はもとからあまり良いものではありませんでした。富士繁戸塚工場の近辺では、道路建設の立ち退きトラブルが発生した過去もあり、近隣への騒音や、操業の安全性についての問題も上がっていました。
玄倉川水難事故はその後保険金殺人との噂も
加藤直樹と会社富士繁との共謀?

実は、この玄倉川水難事故は週刊誌などで「事故」に見せかけた「事件」だったのはではないのかという噂が流れました。リーダー的存在であった加藤直樹が、不自然なまでに頑なに退避勧告を無視したことがそのうわさが流れた主な原因です。加藤直樹が富士繁の経営状況を調べ、事前に社員に生命保険をかけて殺害したという生命保険金殺人の疑いです。
真相はただのうわさ?

結局、この保険金殺人事件はただの疑惑にすぎず、実際には意図的なものはないという結論に至りました。しかし、このような噂が流れてもおかしくないほどに理解ができない事故であったという事です。株式会社富士繁も普段から近隣の評判があまり良くなかったという点でもこの噂が流れる要因となりました。
玄倉川水難事故はその後裁判は行われた?
裁判は行われた?

多くの場合、自然災害に関する事故が発生すると、生存者や犠牲者の遺族によって、自然管理団体やその他公的機関に対して損害賠償を求める裁判が行われることがあります。しかし、今回の玄倉川水難事故で裁判が行われることはありませんでした。

もちろん生存者や犠牲者の遺族たちが訴訟が起こしたところで勝利は望めない内容でしたが、生中継での理不尽な振舞いを考えるとリーダーであった加藤直樹が裁判を起こさなかったことは疑問に考えられます。全国に自分や身内の醜態が晒されてしまい、且つ社名や氏名までがネット上で流出してしまった事を考慮してこれ以上の騒ぎになることを避けたかったのでしょうか?
地元自治体の公費は?

また、自然災害による事故でも、受難者たちに大きな過失があると認められる場合においては、関係機関からレスキュー活動の費用を請求される裁判が起こることもあります。今回の玄倉川水難事故では、地元自治体の負担だけで4,800万円の公費が使われることとなりました。

しかしながら、この4,800万円の費用を請求する訴訟が起こることはありませんでした。このような裁判はその後に起こりうる類似事件発生の抑制効果が期待できるとされていますが、この玄倉川水難事故はあまりに特殊なケースであるという理由から裁判をする必要がないと判断された可能性があります。
玄倉川水難事故のその後の世間の動き
玄倉川水難事故のその後:河川の利用や救助体制の強化

玄倉川水難事故のその後には、世間でも大きな動きがありました。このような悲劇を二度と起こさぬために議論が行われ、事故対策や救助体制の強化が図られました。国土交通省や各署自治体では河川の安全な利用について議論するとともに、事故の再発防止に向けた取り組みが行われることとなりました。

更に、神奈川県では消防組織の改編が、東京都ではウォーターレスキュー隊という名前の部署が新たに設置されました。玄倉川水難事故は13名の犠牲者を出した大きな事故として、自然下において発生する水難事故に対する救助体制が見直され、重要視されるきっかけになりました。
玄倉川水難事故のその後:天気予報での台風の表現の改編

また、玄倉川水難事故をきっかけとして天気予報での台風の表現が改編されました。熱帯低気圧と台風に関して、それまでは大した影響がないという印象を与えていた表現を改めたのです。

2000年6月以降、「弱い熱帯低気圧」を「熱帯低気圧」に変更し、台風の「強さ」を表現した「弱い」「並の強さ」や、台風の「大きさ」を表現した「ごく小さい」「小型」「中型」という文言が廃止されました。

現代においては、台風の強さは「強い」「非常に強い」「猛烈な」という表現に修正され、大きさについても「大型」「超大型」という表現に変更されました。以前使用していた「小さい」や「小型」という人々が油断するような表現を撤廃することで、人々が台風を甘く見ないようにする働きがあります。

玄倉川水難事故から学ぶこと
玄倉川水難事故やその後の言動などを教訓にしよう!
当時ライブで見ていた者としては
— 自遊人@近頃はインスタにいます (@TORA1213K) May 14, 2018
思い出すことも辛いが川の怖さ、自然の怖さ、外遊びの慎重さの警鐘の為に
玄倉川水難事故を紹介したい
事件のその後、リーダー的存在であった加藤直樹を中心として、事故の生存者や犠牲者の自然を甘く見ていた態度及び救助隊や地元住民に対する無礼な態度に世間からの非難が集中しました。犠牲者や生き残りの名前及び「株式会社富士繁」という社名もネット上で流出してしまい、それらは現在でも簡単に目にすることができます。ここではこの事故から学ぶ教訓を紹介します。
玄倉川水難事故の教訓①自然を甘く見ない

「山の天気が変わりやすい」とは一般的によく知られていることです。もしもその場で降雨がないとしても、上流で激しい雨が降ったり、ダムの水が放流されたりした場合にはその後の川の増水は容易に想像できます。また、水深が浅い川であっても、大人でさえ足を取られて犠牲者となってしまう事も稀ではありません。

この玄倉川水難事故においては、前日に発生した熱帯低気圧が原因となり雨が強まり、大雨洪水注意報や警報、そしてダム放流の警告が出されていました。それに加えて、一行は前日から退避勧告を受けていたにも関わらず退避しなかったという事は自然を侮っているとしか考えられません。自然の恐ろしさを忘れて甘く見ていると容易に犠牲者となることになります。
玄倉川水難事故の教訓②アウトドアの知識を付ける

小さな子供を連れてキャンプや川遊びをする場合には、中州で遊ぶことは危険ですのでやめましょう。この一行はキャンプ側が指定していたエリアを無視し、中州にテントを張ったという点でもアウトドアの経験や知識不足が如実に表れています。

今回の玄倉川水難事故においては上流にダムが、そして下流に大小2つの堰があったという大変危険なシチュエーションでした。自然の中でアウトドアを楽しむ場合には、知識や経験の不足、また判断力の欠如は犠牲者を出す大きな要因となってしまいます。彼らがしっかりとアウトドアの知識を持っていれば、もっと多くの人が生き残り出来ていたことは間違いありません。

更に受難者側に非があった場合には受難者の生き残りに対して救助費用等の莫大な損害賠償請求を求める裁判を起こされる可能性も低くはなく、事故後に争うことになってしまいます。このような裁判は身も心もすり減らしていくだけで、何も生み出しません。
玄倉川水難事故の教訓③助言を素直に聞く

大人であっても、アウトドアに対する経験不足や自然に対する知識不足、また咄嗟の判断力が鈍ることは誰にでもあります。そんな時、周囲にいる人々がくれるアドバイスはとても意味があり、重要です。ましてやその道に精通している人や、自然管理団体の人々は経験やデータに基づいた警告や勧告をしてくれるので、必ずアドバイスに従うようにしましょう。

もちろんアウトドアは基本的に自己責任となりますが、危険な事態に陥った場合には周囲の人々に迷惑をかけないように、且つ自分が生き残り出来るように周囲の人々のアドバイスに耳を傾けることはとても重要です。玄倉川水難事故では、幼い子供も生き残り出来る可能性が高かったにも関わらず、大人たちが身勝手な態度をとったせいで命を落とすことになってしまいました。

玄倉川水難事故においては、子供たちの方が大人よりも柔軟に対応していたと言われています。子供のいう事を聞いて大人たちも避難していれば、18人全員が生き残り出来た可能性が非常に高かった事が明らかなので、子供たちは非常識な親の元に生まれたばかりに命を落としてしまったといえるでしょう。
玄倉川水難事故の教訓④救助される場合は謙虚な態度で

このような自然災害や事故に巻き込まれた場合、人々を救助するのは消防隊や自衛隊の仕事です。1人でも多くの人が生き残り出来るように、彼らは自らの命を危険にさらしながら奮闘しなければならないのです。しかしこの玄倉川水難事故において、受難者は彼らに対して「ヘリを呼べ」「お前らの仕事だろ」「早く助けろ」などと言った暴言の数々を吐き散らしました。

また、このような人命救助には莫大な費用が発生してしまいます。自治体などがそれを負担する場合には、その莫大な費用は住民の血税が充てられることとなります。事故や事件のその後にはこのような事実をわきまえていないと世間から激しく非難される事なってしまいます。また、関係機関より損害賠償を請求される可能性もあります。

今回の事故のように個人の名前が流出してしまっている場合、このような費用面以外にも精神的に参ってしまいます。務めている社名が流出してしまった場合には自分だけではなく会社のイメージダウンももたらしてしまいます。誰かから救助される立場に当たった場合には、生き残りのためにもその後の人生のためにも非常識な態度や発言は慎みましょう。
玄倉川水難事故の教訓⑤正しいリーダーを持とう

この一行が頼りにしていた加藤直樹という男性は仕事上では頼れる上司だった可能性があります。しかし、アウトドアにおいて、そして人間力という観点で見るととても優れた上司とは言い難い男性です。特に危機的状況に陥った場合に、その人の人間性や本性が露わになるものです。

この玄倉川水難事故においても、前日にしっかり退避勧告を受けて退避したメンバーがいましたが、彼らは残ってキャンプを続けた一行に対して何度も退避するよう助言していました。しかし残った一行は彼らの意向を無視し、加藤直樹に従いキャンプを続行してしまいました。このような事態に陥った場合、生き残りをかけて信頼できる仲間やリーダーを選ぶことは大変重要です。
謙虚な姿勢を忘れずに

今回は玄倉川水難事故の詳細や事故が起こり多くの犠牲者が出る事となってしまった原因、そして生存者のその後について紹介してきました。彼らは多くの人々の助言や助けを無視したがために自らの命を落とすこととなってしまいました。大切な家族や我が子には生き残りできる可能性が十分にあったにも関わらずです。

多くの犠牲者を出す結果となった原因は、彼らが自然を甘く見ていた点と、周囲に対する謙虚な態度が欠けていたからであるといえるでしょう。アウトドアとはとても楽しいもののはずです。しかし、人間は自然の力に勝つことはできないのです。それをしっかりと忘れずに、信頼できる仲間とアウトドアやキャンプを楽しみましょう。