フリッツル事件のその後は?実娘を監禁した事件の概要や映画・書籍も紹介!
フリッツル事件は2008年に発覚した父親による娘の強姦監禁事件です。25年間地下に閉じ込められた娘は父親の子を7人も産みました。その後、映画にもなったフリッツル事件ですが、現在娘や子供はどうなっているのでしょう?改めてフリッツル事件を追ってみました。
目次
フリッツル事件は凄惨な実娘監禁強姦事件!

あなたは「フリッツル事件」を知っていますか?特にあなたが女性であったなら、大変に衝撃を受けるであろう事件です。この事件を知ったら、日々何事もなく過ぎていくことの幸せをかみしめずにはいられないでしょう。フリッツル事件とは、オーストリアのアムシュテッテンという場所で起きた、女性の監禁事件です。女性の名前はエリーザベト・フリッツルと言います。

エリーザベトは24年間もの間、実の父親ヨーゼフ・フリッツルによって監禁されていました。しかも父親から度重なる肉体的暴力、性的虐待を受け続け、なんと子供を7人も産みました。監禁されていた場所は、自宅の地下室でした。母親のロゼマリアは自宅で普通に暮らしていましたが、娘のエリーザベトは自分の遺志で失踪していたと信じ込んでいました。

監禁された当初、エリーザベトは18歳でした。ただし性的虐待は11歳になった頃から受け続けていました。父の魔の手から逃れるために本当に失踪していたらどれだけよかったでしょう。実際、17歳の時エリーザベトは家から逃げ出し、仕事仲間と共にウィーンに隠れ住みました。しかしそんな日々も3週間で終わりを告げました。未成年のエリーザベトは警官に発見され、家に連れ戻されてしまいます。

その7か月後、エリーザベトは監禁されます。フリッツル事件の始まりです。その後24年に渡って、エリーザベトは外の光を見ることなく、不潔な地下室で日々を過ごします。フレッツル事件が発覚した時、日本でも大きく報道されました。「オーストリアの実娘監禁・強姦事件」や「恐怖の家事件」などと呼ばれました。にわかには信じがたい事件が現在という時代に起こっていたのです。

フリッツル事件は2010年にアイルランドのダブリン出身の女流作家エマ・ドナヒューが、フィクションを交えた「部屋」によって小説化されました。日本では翌2011年に土屋京子氏の訳により、上下巻本が発行されました。さらにはこの小説を原作に、2015年に映画「ルーム」が制作され、公開されました。この映画「ルーム」を見て、初めてフリッツル事件を知った人もいました。

現在という平和な時代に、どうやってフリッツル事件は起きたのでしょう?7人産んだ子供たちのうち1人は生後間もなく死亡しましたが残りの6人は、その後どうなったのでしょう?「フリッツル事件」で検索すると、逮捕された当時の父ヨーゼフ・フリッツルの画像が多く出てきます。そうした画像を見ると、先入観で見るせいか非常に凶悪な人間のように見えてしまいます。

24年間、地下室に監禁されていたエリーザベトが外に出ることができた時、42歳になっていました。現在は自由の身になったとはいっても、エリーザベの青春時代は戻ってはきません。フリッツル事件がどのようにして起きたのか、現在のような科学が発達した時代になぜ発覚しなかったのか、生まれた子供たちは現在どうなっているか、気になる点はたくさんあります。
フリッツル事件<発生>
フリッツル事件の発生①エリーザベトが地下室に閉じ込められる

フリッツル事件の発生からその後を見ていきましょう。フリッツル事件が発生したのは1984年8月29日のことでした。被害者エリーザベトの父ヨーゼフは、地下室にドアを設置するのを手伝わせるという口実で、エリーザベトを地下室に呼び出しました。エリーザベトは素直に父に従います。地下室のドアをヨーゼフがはめる間、エリーザベトはドアを支えていました。

するとヨーゼフはエリーザベトめがけてエーテルを吸わせたタオルを投げつけました。エリーザベトが意識をなくし倒れたところ、ヨーゼフはその身体を地下室に投げ込み、鍵をかけて閉じ込めてしまいます。18歳の娘がいなくなったことに気づいた母親のロゼマリアは警察に娘の失踪届を提出しました。ところがその後1か月ほどして、エリーザベトから手紙が届きます。
フリッツル事件の発生②「娘はカルト宗教に入信した」

手紙には自宅のあるアムシュテッテンから100㎞以上離れたブラウナウ・アム・インの消印が押されていました。手紙には、自分は現在、友達といっしょにいて、自分を探すような真似をしたら国外に出ると書かれていました。筆跡はエリーザベトのものでした。この手紙はヨーゼフがエリーザベトに強要して書かせたものでした。ヨーゼフは警察にこの手紙を届け、娘は狂信的なカルト宗教に入信した可能性が高いと話したそうです。
フリッツル事件の発生③監禁されたてすぐその後のエリーザベト

監禁されてからその後、エリーザベトはドアに体当たりしたり、爪が剥がれるまで天井を引っ掻き、脱出を試みました。しかしその後数日が経過するとエリーザベトは「ここは地下室ではなく、自分はハイキングに行っている」というように自分で思い込むようにしました。以前見たことがる遠くの山を選び、心の中でそこにたどり着くまでの計画を立て、出発しました。

エリーザベトは地下室の電気を消し、2時間が経過すると夜明けの雰囲気を出すために電気を点けました。眠りにつく時、オーストリアの古い讃美歌を口ずさみました。
フリッツル事件の発生④ヨーゼフの鬼畜な所業

娘の監禁に成功したヨーゼフは3日に1度ぐらいの頻度で地下室を訪れました。そして日用品や食料を与えました。この時ヨーゼフはエリーザベトの意に反し、繰り返し近親送還をしました。避妊をしていなかったため、エリーザベトは7人の子供を産む結果となります。子供たちのうち、最初に生まれた長男は生後すぐになくなりました。リザ、モニカ、アレクサンダーの3人の子供は幼児のうちにエリーザベトから引き離されました。

ヨーゼフは3人の子供は家の前に捨てられていたと主張し、地元の社会福祉事務所の許可を得て、子供たちを養子にします。事件が発覚してからその後、当局はヨーゼフが非常にもっともらしい説明をして、疑念を抱かなかったと述べています。ヨーゼフたち家族のもとには何度もソーシャルワーカーが訪れましたが、子供たちはきちんと育てられており、疑念を抱くことはなかったそうです。
フリッツル事件の発生⑤地下室の拡張

その後1994年にエリーザベトは4人目の子を産みます。ヨーゼフはエリーザベトと子供のために地下室を35平方メートルから55平方メートルに拡張しました。またテレビやラジオ、ビデオなどが与えられるようになりました。食事は冷蔵庫で保存できるようになり、ホットプレートで調理ができるようになりました。ヨーゼフがエリーザベトたちに罰を与える時は電気を消すか、食料の支給を止めました。

ヨーゼフは毎朝9時に、機械の図面を描くと言って地下室に行きました。この図面を農家に売って商売にしていたようです。夜まで地下室にいる時もありましたが、ロゼマリアはコーヒーを持っていくことさえ許可されていませんでした。家の1階部分を借りていた店子がいたのですが、地下から声を聞いた時、ヨーゼフはガス暖房の音だと応えていました。
フリッツル事件<犯人逮捕>
フリッツル事件の発覚①長女の急病

フリッツル事件の発覚の経緯は次のようなものです。2008年4月19日、エリーザベトと共に地下で暮らしていた長女ケルスティンが意識を失い、病院に連れていくことをヨーゼフも了承しました。エリーザベトはケルスティンを地下室から運び出すのを手伝いました。エリーザベトはそこでいったん、地下室に戻ります。ケルスティンは救急車で地元の病院に運ばれ、命に関わる重篤な腎不全と診断されました。
フリッツル事件の発覚②警察の再捜査が始まる

遅れて病院に駆け付けたヨーゼフは、ケルスティンの母親が書いたノートが見つかったと主張しましたが、病院関係者がヨーゼフの言葉に矛盾を見つけ、4月21日に警察に通報しました。警察はエリーザベトがカルト宗教に入信したという点について再捜査を開始しました。そのニュースをエリーザベトは地下室のテレビで見て知ることになりました。エリーザベトは病院に行かせてくれるよう、ヨーゼフに頼みました。
フリッツル事件の発覚③解放

ヨーゼフはエリーザベトを息子のシュテファンとフェリックスと共に解放しました。ロゼマリアには、エリーザベトが24年ぶりに帰ってくると決心したのだと伝えました。ヨーゼフとエリーザベトはケルスティンが治療を受けている病院へ向かいます。警察がそれを待ち構えていて、病院の敷地内で2人を拘束し、尋問のために警察に連れていきました。
フリッツル事件の発覚④ヨーゼフの逮捕

警察が「父親と2度と会う必要はない」と確約するとエリーザベトはようやく、24年間の監禁について語り始めました。ヨーゼフは家族に対する不法監禁、強姦、過失致死、近親相姦の疑いで逮捕しました。4月27日、エリーザベトは子供たちと共に警察に保護されました。28日、ヨーゼフは娘の監禁と7人の子供を産ませたことを認めました。翌4月29日、DNA鑑定によってエリーザベトの子供の父親がヨーゼフだと証明されました。

警察は記者会見を開き、ヨーゼフが提示したエリーザベトの手紙は無理矢理書かされたものであったこと、娘をカルト宗教から救い出そうとしたように装おうとしたと語りました。さらに捜査は今後数カ月続き、過去24年間フリッツル家に間借りした100人以上に事情聴取する予定であると発表しました。警察の捜査が本格的に始まりました。
フリッツル事件<判決>

フリッツル事件の裁判は1年間に渡って行われました。その中で、ヨーゼフの生い立ちと共に、過去に起こした犯罪歴がわかりました。24歳の女性を強姦した罪で18か月服役していたのです。他にも強姦未遂、公然わいせつなどの犯歴がありました。しかし周囲の人間は誰もヨーゼフの犯罪歴を知りませんでした。これにはオーストリアの法律が関係していました。
フリッツル事件が起こるまで①ヨーゼフの生い立ち

ヨーゼフは1935年にフリッツル事件の舞台となったオーストリアのアムシュテッテンで誕生しました。4歳の時に父が家族を捨て、ヨーゼフは母子家庭で育つことになりました。HTL工科大学を経てリンツの鉄鋼会社で働き始めたヨーゼフは、21歳の時に18歳のロゼマリアと結婚します。ロゼマリアはエリーザベトを含む5人の娘と2人の息子を産み育てました。

ヨーゼフは1967年に強姦と強姦未遂を犯し、18カ月の懲役を受けます。釈放後、建築建材工場で働き、1971年には営業職としてオーストリア中を巡ることになります。1972年に宿泊施設と隣接のキャンプ場を購入し、夫婦で経営を始めました。自宅以外でも不動産収入を得ていた模様です。
フリッツル事件が起きるまで②ヨーゼフの犯罪歴

ヨーゼフの2件の犯歴はどのようなものだったのでしょう?最初の犯行は、夫の不在時を狙って看護婦の家に押し入り、ナイフを突きつけて脅した上で強姦を行いました。同じ年に別の女性に対しても強姦を試みますが、こちらは未遂に終わります。このような犯歴があるとわかっていれば、フリッツル事件はもう少し早く解決していたのではないでしょうか?

フリッツル事件が24年も明るみに出なかった理由は、オーストリアの法律にあります。当時の法律では、犯罪歴が5年から10年で削除されることが定められていました。エリーザベトの失踪当時、子供の養子縁組や里親申請時、ヨーゼフの犯罪歴は抹消されていました。そのため警察も社会福祉事務所も不審に思わなかったようです。フリッツル事件がきっかけになり、性犯罪などの法改正の検討が開始されました。
フリッツル事件の裁判

フリッツル事件におけるヨーゼフの容疑は近親相姦、強姦、不法監禁、奴隷化、殺人です。実の娘に対する近親相姦、娘と子供たちの監禁、生後間もなく死亡した子供を焼却処分にしたことも罪状に挙げられていました。

フリッツル事件の裁判において、エリーザベトの証言は、ヨーゼフに会いたくないという理由でビデオ収録で行われました。11時間におよぶ証言内容に、あまりに痛ましいと陪審員たちは1度に2時間以上見ることができなかったといわれています。

しかしヨーゼフに反省の色はまったく見えませんでした。裁判は1年続き、2009年3月、フレッツル事件の犯人であるヨーゼフ・フリッツルは死刑のないオーストリアでは最高刑の仮釈放を認めない無期懲役の判決が下されました。
フリッツル事件<現在は娘や子供は?>
フリッツル事件の現在①父ヨーゼフの現在

鬼畜の所業を行ったヨーゼフは現在どのように過ごしているのでしょう?マスコミはこぞってヨーゼフを「モンスター」と呼び、非難しました。ヨーゼフは全員を殺すこともできたのに生かしておき、食料を与えて面倒を見たと主張しました。誕生日やクリスマスも祝い、2つの家族に同じような愛情をかけたとも言いました。

しかしヨーゼフは終身刑となり、15年間仮釈放は認められないという条件もつきました。15年後に仮釈放されても性犯罪は起こせないでしょう。ヨーゼフは現在、ガルステン刑務所の精神疾患犯罪者のための特別な区画に収監されて、厳しく見張られながら日々を過ごしています。
フリッツル事件の現在②娘エリーザベトの現在

エリーザベトのその後が少しでも幸せであればと祈らない人はいないでしょう。判決が下り、父親が裁かれたその後、エリーザベトはボディガードの1人と恋仲になったといいます。普通の女性として生きていこうと頑張っていると報道されています。しかし父ヨーゼフにつけられた深い傷が完全に癒える日は来ないかもしれません。
フリッツル事件の現在③母ロゼマリアの現在

夫にずっと騙され続け、娘と夫の子供を育てさせられていた母ロゼマリアの現在はどういったものなのでしょう?ロゼマリアは事件が発覚したその後、アムシュテッテンにある精神病院に入院し、精神的な治療を受けました。現在、エリーザベトとその子供たちと共に、1つの家族としてなるべく普通に生活をしようと努力していると伝えられてきています。
フリッツル事件の現在④エリーザベトの子供たちの現在

エリーザベトが産んだ子供たちのその後と現在も気になるところです。ヨーゼフによって地上に引き取られたリザ、モニカ、アレクサンダーは祖母のロゼマリアの手で育てられました。その他、監禁されたまま育ったケルスティン、シュテファン、フェリックスの3人は日光に当たっていなかったことから極度のビタミンD欠乏症で貧血を患っていました。子供の1人は視聴と視覚に障害を持っていました。他の子供たちも近親相姦の結果生まれた子供によくある障害を抱えていると報道されています。
フリッツル事件の現在⑤フリッツル家の現在

2008年5月、エリーザベトも子供たちも入院中でしたが、その後「私たちは私たちの運命に対するあなたたちの同情に感謝しています」と隣人たちへの感謝の意を述べました。「私たちは通常の生活に戻れる道がみつかることを祈っています」と続きました。父親の裁判後、エリーザベトと子供たちはオーストリア北部の無名の村に移住し、そこで砦のような家に住み、現在に至ると言われています。

世界を震撼させた事件だっただけに、エリーザベトと子供たちはイギリス人のパパラッチに画像を撮られたこともありました。エリーザベトはさすがにその時取り乱したといいます。2009年3月18日のヨーゼフの裁判2日目に、エリーザベトは自伝執筆の準備のために傍聴をしたといいます。

子供たちは現在、母エリーザベト、祖母ロゼマリアと共に暮らしています。1つの家族として、なるべく普通の人達と同じように生きているということです。24年間という過去は変えられないとしても、この世に生まれた喜びをすべての子供たちが感じるべきです。エリーザベトの子供たちの現在が少しでも平穏なものであることを願うのみです。
フリッツル事件<その後の展開>
書籍や映画が作られた

フリッツル事件は世界に大きな衝撃を与えました。フリッツル事件の判決が確定してからその後、1人の女流作家が事件をもとにフィクションを加え、長編小説を執筆しました。さらにその後、小説をもとに映画化もされました。フリッツル事件が一応の解決を見てからその後、現在に至るまで、社会に多くの影響を与えました。フリッツル事件のその後を追ってみましょう。
フリッツル事件のその後①女流作家による小説の発表
女流作家エマ・ドナヒューが発表した小説「部屋」は、フリッツル事件を題材にしていることは有名な話です。被害者エリーザベトと同性である作家エマの関心は、暗い地下室から抜け出した後の母と子に焦点を当てています。男は歪んだ欲望で、娘の人生を台無しにしました。しかしここから人生は始まるのだとエマは感じたのかもしれません。
女は非力です。男の暴力に耐えるだけの日々が続きました。望まない妊娠もしました。しかし生まれた子はまぎれもなく自分がお腹を痛めて産んだ子なのです。小説の主人公は、悲惨な経験をした母ではなく、生まれながらに世界から隔絶されていた息子になっています。息子はコンクリートの世界に閉じ込められ、世界というものを知りません。

テレビが与えられているので外の世界を知ることはできます。しかしそれが本物であるとは考えません。ある日、母と子は突然、世界に飛び出します。テレビの中のものは全て嘘だと信じていた息子の戸惑いは尋常なものではありませんでした。母は自分が被害者でありながら、自分を守りながらも息子に教え諭さなければいけません。この世は息子が生まれる前から存在し、とてつもなく広いのだと。
フリッツル事件のその後②映画の製作

小説「部屋」は映画になりました。主人公の少年役、母役にはかなりの演技力が必要になってきます。世界を知らなかった息子が、初めて世界を見た時、触れた時、何を感じ、何をするかが感動的に描かれています。映画はトロント国際映画祭に出品され、最優秀賞である監督賞を受賞します。映画界の最高峰、アカデミー賞の前哨戦であるゴールデン・グローブ賞において主演のブリー・ラーソンは最優秀女優賞を受賞します。
フリッツル事件と映画の違い③帰還を喜ぶ父親がいない

その後行われた第88回アカデミー賞で、作品賞、監督賞、脚色賞、主演女優賞の4部門にノミネートされ、見事に母親役を演じたブリー・ラーソンが主演女優賞を受賞します。映画は実際のフリッツル事件と違う部分が多々あります。まず、監禁していた男は実の父親ではありません。監禁されていた母親には両親がいて、娘の帰還を喜びます。しかし映画の世界ではなく現実では、帰還を喜ぶ父親はいません。
フリッツル事件と映画との違い②子供は息子1人ではない

映画「ルーム」の中で主人公の女性が一緒に暮らしている子供は息子1人だけです。フリッツル事件の被害者エリーザベトは6人の子供がいて、そのうちの3人と暗い地下室で暮らしていました。映画「ルーム」では空を切り取ったように、窓からわずかに外の世界を見ることができます。しかしエリーザベトと3人の子供たちが暮らしていた地下室は窓が一切ありませんでした。
フリッツル事件と映画の違い③子供は健康ではない

映画「ルーム」の主人公の少年は近親相姦の結果生まれたわけではありません。したがって血の濃さ故の障害は負っていません。しかしエリーザベトの子供たちは総じて、近親相姦によって生まれた故の障害を持っていました。これは生きていく上で、生涯付きまとう厳しい現実です。映画「ルーム」では親子が外に出てからの様子が描かれていますが、フリッツル事件ではその後はほとんど知られていません。
フリッツル事件と映画の違い④感動的ではない

映画「ルーム」は狭い部屋からとてつもなく広い世界に飛び出した母子の再成の物語です。実際のフリッツル事件は映画のように感動的な結末を迎えたかというなら、大いに疑問です。エリーザベトと共に地下室で育った子供たちはエリーザベトに勉強を教えてもらいながら生活してきました。エリーザベトが監禁されたのが18歳の時でした。

まだ人生は始まったばかりの年齢です。さらには父親に強姦され続けて、たった1人で子供を産み落としていくという異常な環境下でずっと過ごしていました。18歳で監禁され、それが24年間続いたということは、外の世界にいた時間より長く、地下室で暮らしていたということになります。そういった意味では、映画の母親のように子供たちにとって完璧な教師にはなり得なかったのではないでしょうか?
フリッツル事件と映画の違い⑤終わりが見えない

当たり前ですが映画には始まりがあり、終わりがあります。上映時間が終われば、観客は日常に帰っていきます。しかしエリーザベトと子供たちの物語は終わりがありません。これから先も、カットの声がかかることなく、日々は続いていくのです。いつか命を終える日まで、人生という名の戦いは続きます。子供たちが自分たちの運命をどこで納得させるかは彼ら1人1人の心次第なのです。
フリッツル事件に似たケースが日本でも

フリッツル事件とは、父親が娘を強姦するという近親相姦事件であることと、娘を監禁する監禁事件であることが特徴です。場所を日本に置き換えた場合、監禁事件や近親相姦事件は起きています。
日本で起きた近親相姦事件・矢坂実父殺し事件

1968年10月5日に起きた事件です。当時29歳の娘が、当時53歳の実の父親を絞殺するという事件が起きました。栃木県佐久山町にその父親はいました。父親は農業の傍ら、町役場の吏員としても勤めていました。青年学級の指導員でもありました。妻との間には長女A子をはじめとして、二男四女の大家族でした。A子は1939年生まれで父母が24歳の時の子供でした。

父親は1958年に宇都宮に移り、雑貨を扱う商売を始めました。木造平屋の二間に9人が暮らす状況で、商売はうまくいかず貧しい状況が続いていました。A子が中学二年の三学期、14歳の時からA子の布団の中に、酔った父が潜り込んでくるようになりました。A子は一緒に寝ている家族を起こすまいと声を殺していました。以後、母親の目を盗んでは1週間に1回、10日に1回と強姦され続けました。

A子は母に泣きながら訴えました。母は、どうりで自分のところに来ないと思ったと思い至りました。「A子に何すんだ!」と怒ると、父親は逆に包丁を突きつけ「殺すぞ」と脅し返してきました。母は怖くなり、A子や他の子供たちと逃げ出しました。結局母親は子供半分を連れて北海道に家出してしまいます。残されたA子が母代わりに弟妹の面倒を見ていました。父親は母親の目を気にする必要がなくなり、日に何度も強姦をしました。

A子が17歳の時、父親の子を身ごもってしまいます。A子は田植えの時に知り合った男と駆け落ちしました。女のA子の側から「一緒に逃げてください」と頼んだのだそうです。2人は黒磯まで言ったところで、父に追いつかれて連れ戻されました。11月24日にA子は長女を出産します。1957年、市営団地に引っ越して、A子は次女、三女を出産します。いつの間にか父親とA子と子供3人の暮らしになっていました。

1968年、5度の出産と5度の中絶をしていたA子は、このままでは身体がもたないから手術して妊娠しないようにしたほうがいいと言われ、不妊手術を受けました。A子は近所の印刷所に働きに出るようになっていて、年下の男性に初めての恋をします。男性と仕事帰りに喫茶店でおしゃべりしたり、デパートで買い物したりと普通の女性の恋愛をするようになります。

男性はA子に子供ができないことを知った上でプロポーズします。それを知った父親は大激怒し、印刷会社もやめさせられ、父親の監視は一層ひどくなりました。ついにA子は父親の首を股引の紐で絞殺しました。当時、親殺しは「尊属殺人」といって大きな罪でした。しかしA子のあまりに悲惨な境遇に宇都宮地裁は尊属殺人は違憲とし、普通殺人罪を適用しました。

さらにA子の心神耗弱状態をも認め、刑を免除しました。高裁では逆に実刑が言い渡されましたが、最高裁で懲役2年6ヵ月、執行猶予3年が確定しました。34歳になっていたA子は「悪夢、忘れます」と言葉を残しました。尊属殺人の刑法二〇〇条は後の改正で削除されました。
フリッツル事件の関連画像
フリッツル事件の画像①父親ヨーゼフの逮捕画像

フリッツル事件の犯人であり、被害者の父親であるヨーゼフ・フリッツルの逮捕時の画像です。眉根が鋭角的に上がって、いかにも凶悪そうな画像です。しかしこれも、見る側に先入観があるからかもしれません。
フリッツル事件の画像②アルゼンチンのフリッツル事件
Woman is freed after 20 years in 'Argentine Fritzl' case https://t.co/SyHYJwxvzZ
— Daily Mail Online (@MailOnline) June 15, 2018
アルゼンチンでも20年以上監禁されていた女性がいたようです。これが「アルゼンチンのフリッツル事件」と呼ばれているようです。監禁されていた小屋の画像です。
フリッツル事件の画像③娘エリーザベトと父ヨーゼフの画像
"the fritzl case" the girl who was kept captive in a dungeon for 24 years by her father: a thread pic.twitter.com/2tZEiWK4Fy
— Deniz (@idkdeniz) August 5, 2017
犯人のヨーゼフ・フリッツルと、娘のエリーザベト・フリッツルの画像です。エリーザベトは11歳から性的虐待を受けていました。この笑顔は本物の笑顔だったのでしょうか?この少女が42歳になるまで外に出られなかったとは、想像を絶する苦しみだったはずです。
フリッツル事件の画像④地下室の画像

エリーザベトが監禁されていた地下室のトイレ周辺の画像です。警察が地下室を発見し、現場検証をしている画像のようです。この画像ではバスルームの壁に子供の絵が描いてあるのが見ることができます。エリーザベトが子供を必死に育てていたことがよくわかります。
フリッツル事件の画像⑤事件発覚後出版された本の画像

フリッツル事件の関連本は、日本では「部屋」ぐらいしか出版されていませんが、世界的にヨーゼフの悪行を書き立てた「モンスター」という書籍の画像です。「モンスター」はヨーゼフ・フリッツルのことを言うのだと、当時オーストリアでは報道されていました。
フリッツル事件の画像⑥裁判中の父ヨーゼフの画像

1年にわたる裁判の最中のヨーゼフの画像です。紳士然としていますが、ヨーゼフの鬼畜行動は全世界に知られていました。
フリッツル事件の画像⑦子供たちの相関図の画像

ヨーゼフ、ロゼマリア、エリーザベト、子供たちの親子関係の相関図の画像です。ヨーゼフたちに引き取られて日の当たる場所で生活してきた子供たちは画像がありますが、監禁されていた子供たちは写真を撮る機会もなかったはずです。
フリッツル事件の画像⑧裁判に向かう父ヨーゼフの画像

警官に囲まれたヨーゼフの画像です。1年に渡って行われる裁判の法廷に行こうとしている時の画像のようです。警官の背が高いかもしれませんが、モンスターと呼ばれた男は案外と小柄でした。
フリッツル事件の画像⑨警官に囲まれている父ヨーゼフの画像
"#joseffritzl le monstre d'Amstetten" un doc de #karlzero à revoir ici : … https://t.co/SxhrDfjXgt pic.twitter.com/2twWlCQI9D
— Karl Zero Absolu (@karlitozero) March 15, 2016
こちらも、警官に囲まれて裁判の法廷に向かうヨーゼフの画像です。24年の時の流れは、壮年期だった男を老人にしました。刑期は無期懲役、15年の仮出所なしの判決でした。
フリッツル事件の画像⑩父ヨーゼフに関する書籍の画像

フリッツル事件の関心は非常に高く、犯人のヨーゼフに関する書籍がいくつも発売されています。この本は前述の「モンスター」とは別の書籍です。
平凡な日常こそ最高の幸せ

フリッツル事件のような想像を絶する凶悪な事件に巻き込まれたエリーザベトと子供たちは、今後生きていく上でも様々な困難が待ち受けていることでしょう。平凡な日常がどれだけ幸せなものなのかを再認識させられます。フリッツル事件の関係者の望みもまた、平凡で普通の日常です。平凡な日常がいかに価値あるものなのか実感していることでしょう。彼女たちの先の人生が幸せであることを誰もが願わずにいられないでしょう。