附属池田小事件で逃げた教師の発言とは?犯人のその後や事件の詳細!

2001年に起きた附属池田小事件は史上最悪の児童殺人事件です。この事件の時に逃げた教師が話題になりました。事件の時、附属池田小で何が起きたのか、逃げた教師はその後どうなったのか、被害者遺族からどんな批判を浴びたのかを事件の詳細と共に調べました。

目次

  1. 附属池田小事件で話題になるのは逃げた教師の詳細
  2. 附属池田小事件で逃げた教師のふるまいや発言とは
  3. 附属池田小事件で逃げた教師が遺族から浴びた非難
  4. 附属池田小事件で逃げた教師のその後
  5. 附属池田小事件でトイレにこもっていた被害者が話題
  6. 附属池田小事件の犯人は死刑執行済
  7. 附属池田小事件は教育史に残る悲劇

附属池田小事件で話題になるのは逃げた教師の詳細

あの時に時間を巻き戻すことができたならとどんな人間であっても後悔する瞬間はあるのではないでしょうか?それが児童の殺傷事件となったらなおさらです。その時トイレに入っていた児童は、トイレから出ないで凶行に遭うのを免れました。一瞬一瞬の決断の末に決まった運命はある者を被害者にし、ある者の命を助け、ある者を「逃げた教師」とののしったのです。

附属池田小事件とは

附属池田小事件と呼ばれる児童殺傷事件が起きたのは、2001年のことでした。附属池田小とは正式名称が大阪教育大学附属池田小学校です。公立の小学校ではなく、入学試験に合格した児童が入学する私立小学校です。2018年現在も「関西でとても人気の高い小学校」として、お受験を志す親子に人気です。入学試験に合格した子供たちは、優秀な子供たちだと言えるでしょう。

附属池田小事件の経緯①犯人・宅間守の侵入

そんな附属池田小で史上最悪な事件が起きます。2年南組の担任教師は授業を2分ほど残して、学級菜園を見たいといった児童2人と校舎を出ていました。その時、体育館の陰から男が現れ、ゆっくりと近づいてきました。手には緑のポリ袋を持っていました。教師は保護者か出入りの業者かと思い、すれ違いざまに会釈しました。宅間守は無言のまま校舎へ入っていったそうです。

教師はこの光景を何度も思い浮かべ、悔やんだそうです、安心しきっていて、疑念など浮かばなかったそうです。よく考えてみれば業者の服装でもなかったのになぜ気づかなかったのかと自問自答したそうです。

附属池田小事件の経緯②2年東組で凶行開始

2001年6月8日10時15分ごろ、児童たちは2時間目の授業を終えようとしていました。その時、犯人の宅間守が校舎の左端、2年東組に出刃包丁を持って、乱入してきました。知らない男が入って来て、当初、児童たちは恐怖よりも戸惑いを覚えたようです。知らないおっちゃんが入って来たとか、給食の人が来たとか思ったようです。

附属池田小事件の経緯➂2年東組からテラスへ

宅間守は無邪気な子供たちを次々に出刃包丁で襲いました。2年東組の男性教師は「外に逃げろ」と大声で児童に指示しました。悲鳴を上げて教室から逃げ出す児童のうち、転んでしまった児童が宅間守に襲われ、4人が重軽傷を負いました。男性教師は宅間守に対して椅子を投げつけるなど抵抗しました。宅間守はいったんテラスに出ます。

事件当時、児童たちはパニックに陥ったことでしょう。校庭に出るのがいいのか、トイレに逃げ込めばいいのか、教師たちは指示してくれませんでした。トイレの個室に入れば、とりあえずの安全は確保できたかもしれません。しかしもしトイレの個室に籠ったことを宅間守に知られたら、トイレのドアを乗り越えてきたかもしれません。何が逃げるための最善の道だったのか、誰にもわかりませんでした。

附属池田小事件の経緯④2年西組に「逃げた教師」はいた

宅間守はそのまま隣の2年西組に乱入しました。そこに「逃げた教師」と呼ばれることになる女性教諭がいました。当時2年西組では、児童が全員前を向いて座っており、逃げた教師は宅間守の侵入方向に向いて、教卓に着いていました。宅間守は大きな音を立てましたが、逃げた教師は気づきませんでした。宅間守は教室に侵入したと同時に、3人の被害者児童を次々に刺し、うち1人の被害者児童を死に至らしめました。

附属池田小事件の経緯⑤逃げた教師が事務室に向かう

宅間守の存在に気付いた逃げた教師は悲鳴を上げ、「逃げて」と児童に叫ぶと、通報のために教室から飛び出しました。西組では児童が次々に襲われ、8人の児童が死傷しました。続けて宅間守は2年南組の教室に侵入します。前述の通り、担任教師はおらず、児童たちは休み時間に入っていました。ここでは5人の児童が死傷しました。花壇に水をまいていた担任教師は、助けを求める児童の声で事件に気づき、教室に向かいました。

附属池田小事件の経緯⑥教師たちによって宅間守が取り押さえられる

その間、宅間守は1年南組に侵入しました。その場で切りつけられながらも、2年南組の担任教師は宅間守と格闘します。やがて副校長が加わり、2人がかりで宅間守を取り押さえました。約15分に渡る、無言の凶行でした。

附属池田小事件の経緯⑦史上最悪の児童殺傷事件となる

附属池田小事件で被害者児童は8人が死亡し、教師を含む被害者15人が重軽傷を負いました。この附属池田小事件は宅間守の単独犯であると認定されています。宅間守は何故、このような事件を起こしたのでしょう?また、なぜ附属池田小でなければならなかったのでしょうか?

附属池田小事件の犯人・宅間守①精神鑑定の結果

附属池田小事件当時、宅間守は統合失調症を装っていました。しかし2度に渡る精神鑑定の結果、パーソナリティ障害は認められるが、統合失調症ではなく、責任能力を減免するほどの精神障害はないとされています。宅間守は犯行時、薬を服用していたと主張しました。しかし宅間守が所持していた薬に特異な副作用はなく、尿検査でも薬の成分は検出されませんでした。

附属池田小事件の犯人・宅間守②事件時のプロフォール

宅間守は1963年11月23日生まれで、職業は事件当時、無職でした。身長182センチ、体重75キロと大柄な体を見て、被害者児童たちはどれだけ恐怖に震えたでしょう。前科は15犯もあり強姦、暴行、器物破損など多岐にわたっていました。

附属池田小事件の犯人・宅間守➂事件までの生い立ち

附属池田小事件を起こした宅間守は兵庫県伊丹市の工員の次男として生まれました。宅間守が生まれる前に母親は、妊娠を喜ぶ父親に対して、堕胎したい旨を訴えたそうです。母親が宅間守を身に宿した時、何を感じたのかはわかりません。しかし宅間守は幼少の頃から問題児でした。三輪車で国道の中心を走って渋滞させたり、動物を虐待するなどしていました。

附属池田小事件の犯人・宅間守④小動物虐待を繰り返す

燃やしたドラム缶に生きた猫を入れたり、布団で簀巻きにして川に流したりもしました。成長するにつれ、家庭内暴力を繰り返すようになります。この原因となったのが幼少の時に父親から受けた暴力だったそうです。安全地帯であるはずの家庭内が安住の地でなかったことや、それにより蓄積したストレスが学校や小動物に向けられていったと言われています。

附属池田小事件の犯人・宅間守⑤中学受験での恨み

強者に迎合し、自分より劣ると判断した人間を「奴隷」と名指しします。「宅間さま」とかしずかせ、因縁をつけては暴行を繰り返します。女生徒が横切ると唾を吐きかけました。小学6年生の時、大阪教育大学付属池田中学校の受験を希望しました。しかし当時の成績ではとても無理だと受験させてもらえませんでした。宅間守は、もっと頭の良い人間に産んでくれなかった親を恨むようになります。

しかたなく地元の中学に進学し、その後に工業高校に進みますが、教師を殴ってあっさり退学となります。このような素行が附属池田小事件を起こすきっかけになったというのが検察側の判断でした。

附属池田小事件の犯人・宅間守⑥数々の事件を起こす

宅間守は附属池田小事件を起こす前にも、数多くの犯罪を犯しています。逮捕されたのは15回に及びます。家出少女に対する強姦未遂事件、マンション管理会社の業務中にマンションに住む女性宅に上がり込んでの強姦未遂事件、車のライトが明るいと相手の車を破損した暴行事件、実兄の車を壊した器物損壊事件、検問を突破し高速道路を逆走した交通違反、結婚相手への暴行事件など多くの事件を起こしています。

附属池田小事件の犯人・宅間守⑦精神障害を装う

宅間守は附属池田小事件を起こす前の事件で逮捕を免れるために、精神病を装い、たびたび入院を繰り返していました。入院中は病院の屋上から飛び降りるといった自殺未遂騒動も起こしています。さらには精神病を理由に障害手当金、精神障害者年金を受給していました。

附属池田小事件で逃げた教師のふるまいや発言とは

附属池田小事件のポイント①逃げた教師は本当に逃げたのか?

ところで後に2年西組から逃げた教師はどこへ向かったのでしょう?逃げた教師は決して自分1人だけ助かろうとしたわけではありません。校内放送をして誰かに知らせようと考えたようです。しかしその判断が正しいものであったかは議論を呼ぶところです。身を挺して児童を守れとまではいいません。しかし児童を避難誘導することはできたのではないかと附属池田小事件の遺族は訴えるのです。

附属池田小事件のポイント②逃げた教師が110番通報した

逃げた教師は教室で児童が刺される様子を目撃しました。逃げた教師は警察に通報するために廊下を走ります。そこで廊下で倒れて苦しんでいる被害者児童を見たものの、救助をすることなく事務室に飛び込んだと言われています。その被害者児童は2年南組の子で、他の教員がかかわるまで6分間放置され、後に死亡したと言われています。10時18分、逃げた教師は110番に通報しました。

110番通報した際、逃げた教師は警察に事件の詳細を聞かれました。その対応に8分ほど時間がかかりました、そのため警察からの救急車の依頼が遅くなってしまいました。警察が救急車を要請したのは、逃げた教師が通報を始めて5分後のことでした。この点に関しても附属池田小事件の遺族は納得がいっていないようです。

附属池田小事件のポイント➂逃げた教師が不在だった2年西組では

逃げた教師が事務室に走り、教室には宅間守と児童が残されました。宅間守は逃げる児童を追い回し、教室内、出入り口付近、廊下で5名の被害者児童を突き刺し、切りつけ、うち1人の被害者児童を死に至らしめました。

附属池田小事件のポイント④救命活動の遅れ

附属池田小事件の問題点として大きく取り上げられたのは、犯人の宅間守を取り押さえてから警察が犯人確保するまでの間、学校全体としての状況把握と組織的な対処処置が行われなかったことでした。死亡した8人の被害者児童は即死ではありませんでした。救命活動の遅れが原因につながる失血死だったのです。児童を組織的に避難誘導することもなければ、的確な救命搬送措置が行われなかった点が問題となっています。

附属池田小事件のポイント⑤逃げた教師はどうするべきだったのか?

逃げた教師は当時26歳の女性教師でした。2年西組の担任を初めて受け持ち、張り切っていたといいます。被害者児童たちが切りつけられている中、警察に知らせるために事務室に向かったことは、最善の道ではなかったと口にするのは簡単です。しかしパニック状態の中、常に人に褒められる最善の道を進むことができる人間は少ないのではないでしょうか?附属池田小事件とはそうした事件です。

附属池田小事件で逃げた教師が遺族から浴びた非難

被害者遺族の感情①ある日突然遺族になった

亡くなった被害者のうち7人が2年生、1名が1年生でした。新聞記事には被害者児童のあどけない笑顔と名前が載りました。突然刃物を持った大男に襲われた恐怖がどれほどのものであったかうかがい知ることはできません。亡くなった被害者児童の他、死と隣り合わせの恐怖を味わってしまった児童たちも被害者と言えるのです。トラウマ体験によるPTSDの症状に苦しむなど、消し去ることのできない被害を負いました。

被害者遺族の感情②校内の混乱に憤慨

附属池田小事件の時、校内は混乱状態でした。しかし対策がきちんと整っていなかったため、通報や救急車の要請が遅れてしまいました。当然、被害者児童の保護者への連絡も行き届きませんでした。遺族となった保護者の中には事件の発生を知り、病院を探し回ってやっと我が子を見つけたら亡くなっていたという人もいます。ある日突然、愛しい子供を殺された遺族の悲しみはいかばかりのものでしょう。

被害者遺族の感情➂逃げた教師に怒り

遺族の怒りは附属池田小の防犯意識の低さと共に、2年西組の逃げた教師に向けられました。たとえ通報のためといえ、目の前で児童たちが襲われている状態なのに置き去りにし、逃げた教師として大きな批判を浴びました。遺族だけでなく世間も逃げた教師を非難しました。逃げた教師の名前はネット上で簡単に調べられてしまうほどでした。

逃げた教師は現場を離れただけで充分に非難の対象になったのですが、通報が事件発生から7分以上も経ってしまったことも遺族たちは問題視しました。学校から逃げ出した児童の中に、近くのスーパーに助けを求めた子がいました。そちらの通報のほうが事件発生から5分と早かったのです。そんな状況から遺族は、逃げた教師は通報のために飛び出したのではなく逃げただけなのではないかと追及しました。

附属池田小事件で逃げた教師のその後

「逃げた教師」のレッテルを貼られて

逃げた教師は事件後に、附属池田小をひっそりと退職しています。逃げた教師のレッテルは、彼女にとって辛いものだったでしょう。26歳の若さで逃げた教師自身も心に大きな傷を受けたことは頷けます。事件から半年後、事件の取材に重い口を開きました。

被害者と遺族への悔恨の意

逃げた教師はまず、被害者と遺族に素直に謝りました。さらに悔やんでも悔やみきれないと語ります。忌まわしい事件の記憶と後悔の念は消えることがないようです。逃げた教師のクラスでは事件で女児2人の尊い命が奪われ、6人の児童が怪我を負いました。教師でありながら子供たちを守ってあげられなかったことを、遺族や保護者に詫びても詫びきれない、言葉が見つからないと続けます。

涙が枯れるほどないたそうです。でも子供たちが帰って来るわけではありません。もう生きていけない、いっそのこと死んでしまおうかと考えたことも一度や二度ではなかったそうです。突然に教室に侵入してきた宅間守の、カッと目を見開いた顔つきが、脳裏に焼き付いて離れないそうです。悲鳴を上げる間もなく、いちばん後ろの席に座っていた児童3人が刺された時、何が起きたかわからなかったそうです。

椅子を投げるぐらい抵抗していれば、もっと児童を救えたかもしれないし、もっと大きな声で「逃げて!」と叫んだら、もっと多くの児童が逃げることができたかもしれないこと、110番だけでなく119番もするべきだたこと、テキパキと話ができずなかなか教室に戻れなかったことなど、悔恨の念は尽きないそうです。しかしもう一度同じ現場に遭遇したら最善の措置がとれるかとなると自信がないと語ります。

逃げた教師は幼い頃から憧れの職業に就いていた

小学校教師という職は幼い頃から憧れていた職業だったそうです。春に附属池田小に転勤が決まった時は本当に嬉しかったそうです。素晴らしい教育環境で、先輩教師たちは皆熱心で、授業の方法や児童への接し方、生活態度にいたるまで率直な助言をしてくれたそうです。赴任2年目で初めて持ったクラスが2年西組でした。ようやく児童の個性を把握することができ、これからという時に事件は起きました。

事件以後、逃げた教師もPTSDに苦しみました。背中や腰が岩のように固くなり、首も回らなくなり、不眠が続きました。浅い眠りに入っても見る夢は事件の悪夢です。長い入院期間を経て、現在に至るも、微熱が続き、元の体調に戻らないそうです。2人の児童の死は一生背負っていかなければならない重い十字架です。そして逃げた教師は「教師とは何だろう」と自問を続けるのです。

あなたは「逃げた教師」にならない自信はあるか?

この事件を引き起こした人間は宅間守ただ1人です。この男は自分の人生に起きた災禍を清算するため、精神障害者を装い、何の罪もない児童を次々に刺し殺していきました。遺族や社会はあまりに悲惨な現実から、怒りの矛先を学校や逃げた教師に向けました。しかしもし街角や電車の中で同じような事件に遭遇した場合、誰もが適切な行動ができるでしょうか?自分の命を張ってまで、目の前の子供を救うことができるでしょうか?

附属池田小事件でトイレにこもっていた被害者が話題

トイレに籠って難を逃れた附属池田小の元児童

2017年11月に大型掲示板にある人物が「今までにあった最大の修羅場を語るスレ」に投稿して話題になっています。その投稿者は16年前の附属池田小事件当時、附属池田小の生徒であったといいます。宅間守が附属池田小に侵入する直前の2時間目の終わりにトイレに行きたくなりました。先生に申し出てトイレに行った投稿者はトイレから出ようとすると、不穏な空気に気づきます。

投稿者がトイレから出ようとすると、1人の先生が投稿者に向かって「トイレから出るな。トイレの個室に鍵をかけて閉じこもっていろ!」と言ってきました。投稿者は何が何だかわからない状態でしたが、トイレに戻り、教師の指示通りにトイレの個室に鍵をかけて閉じ籠りました。すると廊下から怒鳴り声や悲鳴が聞こえてきたのです。

しばらくして3時間目のチャイムが鳴りましたが、廊下からの声は止まず、投稿者は怖くなってトイレから出て来られなくなりました。やがて外からパトカーや救急車のサイレンの音が聞こえてきました。3時間目が終わるチャイムが鳴ってようやく投稿者はトイレから出ます。教室に戻ろうとした時、廊下は血まみれでした。誰かが怪我をしたのかと思ったそうです。担任がやって来て「無事だったのか?」と言ってきました。

投稿者は、トイレから出るなと言われたからトイレの個室に籠っていたと言いました。すると担任は驚くべきことを言いました。変な男が刃物を持って学校に入ってきて、同級生たちを刺したというのです。怪我人は病院に運ばれましたが何人かが手遅れになったそうです。「おそらく皆さんは何のことだかわかったと思います」と投稿者は語ります。時期的に言っても、附属池田小事件のことでしょう。

附属池田小事件の犯人は死刑執行済

附属池田小事件のあっけない結末

2003年8月28日、大阪地方裁判所は附属池田小事件を起こした被告人の宅間守に死刑判決を言い渡しました。死刑判決を言い渡す時は、主文を最後に述べるのが慣例ですが、附属池田小事件の宅間守の場合はそれを破って、主文を先に言い渡しました。さらに、宅間守が開廷時に騒いだために退廷命令を受けており、裁判長が死刑判決を読み上げている様子を自ら聞くことはなかったという異例ずくめの法廷でした。

この判決公判は傍聴希望者が非常に多かったため、特別措置として法廷にビデオカメラが設置されました。人々は別室でテレビモニターで傍聴ができたのです。公判中、宅間守はあくびや貧乏ゆすりを繰り返し、遺族や裁判長をにらみつけるなどの行為を行いました。これに対して傍聴席から「早く死ね!」「1人で死ね!」などの怒号が飛び交っていました。

控訴期限の2003年9月10日、弁護人は控訴をしました。しかし9月26日に宅間守は控訴を取り下げて、死刑判決を確定させました。宅間守は「死刑確定後の6カ月以内の死刑執行」を訴えました。死刑が6カ月以内に執行されないなら精神的苦痛を理由に国家賠償訴訟と法務大臣に対する刑事告訴を起こす準備をしていました。担当弁護士に充てた2004年の年賀状で「けじめをつけるためご協力お願いします」とありました。

宅間守は一刻も早い処刑を望んでいました。いっぽうで判決確定後に宅間守は、死刑廃止運動家の女性と獄中結婚をし、宅間の姓を女性の姓に変えていました。この他に愛知県の既婚女性から愛の告白を受けており、文通を続けていました。愛情や支援にはかたくなに心を閉ざしていましたが、理解者が現れるにつれ少しずつ心を開いていきました。

死刑確定から1年後の2004年9月14日8時16分、宅間守は大阪拘置所で死刑が執行されました。宅間守が望んだとおりの早期執行となりました。享年40歳でした。宅間守は妻への最後の言葉を刑務官に伝えていました。「ありがとうと僕が言っていたと伝えてください」というものでした。妻への感謝の気持ちは表したものの、事件の犠牲になった被害者や遺族への謝罪は最後まで一切ありませんでした。

附属池田小事件は教育史に残る悲劇

誰もが逃げた教師になり得たかもしれない

附属池田小事件があってから、もはや学校に子供を預けていれば安心だとは言い切れなくなりました。子供が当たり前のように学校へ行き、当たり前のように帰ってくるという日常が、いとも簡単に崩されかねないという警鐘が鳴らされることとなりました。

附属池田小事件をきっかけに、地域に開かれた学校から、閉ざされた学校へと変わっていきました。学校には警備員が配置され、部外者の校内への立ち入りは原則として禁止になりました。また防犯ブザーの利用も増えました。附属池田小事件を契機に安全対策が強まる傾向になっていきました。

附属池田小事件の悲劇を二度と繰り返さないために、どのような防犯ができるのでしょうか?子供を被害者にしないため、家庭の中で防犯意識を高めていくことが役に立つかもしれません。また、学校内でも不審車の侵入に遭った場合どのように対処していくか徹底的に話し合い、訓練をすることも重要になってきます。二度と「逃げた教師」を出さないためです。

どんな人も逃げた教師になり得るからです。これはどこか別の世界の話ではありません。現実に日本で起きた惨劇です。日本の安全神話は完全に崩れました。通報に行くことで逃げた教師と批判された女教師も、危険に対する心構えとシュミレーションができていたら、違った行動をとることができたでしょう。二度と悲劇を繰り返さないため、大人も子供も防犯意識を持って日々を過ごさなければならない時代になったのです。

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